| Viaje 旅の記録 |
uatemala
グァテマラへ
グァテマラ。決してメジャーとは言えないこの国の正確な位置や、どんな国なのかを知っている人はあまりいないはず。当然、そんなところに直行便が飛んでいるはずがない。LA経由で入るのが一般的である。しかし、私が買ったチケットはメキシコまでしか行かない。したがって当然メキシコ ー グァテマラ間は自分で手配しなければいけない。ちなみに私が買ったのは準世界一周というやつで、成田 − LA − メキシコ (途中なし) ブエノス・アイレス − ケープタウン − ヨハネスブルグ − クアラルンプール − 成田 の1年オープンのチケットです(マレーシアエア)。という訳で、とりあえずメキシコに着いた私。代理店にてチケット購入。後で考えると、陸路でグァテまで降りていってもおもしろかったのですが、その時はとりあえず早くグァテにいかなくては、ということで、飛行機で飛びました。
だいじょうぶかしらん?
グァテマラに着いてまず驚いたこと。キャリアでいいんでしたっけ。荷物を乗せるやつ。あれが有料なんですよ。(ちなみに97年に行ったら、フリーになってました)とりあえずホテルへ。今までの私の旅行のパターン通り、TIで地図をもらって、ホテルを予約しようと思っていたらTIのオネーちゃんが長電話。仕方ないので、ホテルのリストだけ勝手にとって空港の外へ。そしてタクシーでホテルに行ってそのままチェックイン。そう、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、私はここでバックパッカーにあるまじき?行為を2つしています。1つはタクシーでホテルまで行ったこと。余計な出費を極力しないためには、路線バスで行くのが正解。その方が安いだけでなく、オモシロイことに出会えるチャンスがある。しかし、同時に危険や苦痛を伴う可能性も大きい。もちろんその時の状況によって違いますが。そして2つめは、部屋を見ないで決めてしまったこと。安いだけあって、汚いわ、虫はぎょうさんおるわ、最低でした。これ以降、必ず部屋を見てから決めるようにしました。
グァテマラでの初めての夕食はなぜかアルゼンチンレストランでした。中に入ると、ほとんどの客がテレビに熱中してました。サッカーの”コパ・アメリカ”のブラジルとアルゼンチンの試合をやっていたのです。結局ブラジルがPKで勝ったのですが、私はサッカーよりも1人の酔っ払い?の方が気になってました。「こっち来るなよ」と思っていたのですが、店の中で唯一の外国人、しかも東洋人である私に気づかないはずありません。やおらこちらに来るとなにやらまくしたてます。しかし、幸か不幸かその時の私はスペイン語をそんなに理解できなかったので無視してると、店の人がその人をどこかにつれてってくれました。ほっとしたのと同時に「こんなんでびびとったらあかん」と思った私です。その後、虫がたむろしているホテルの部屋には戻る気になれず、近くにあった怪しげな飲み屋にはいったのでした。そこには絵に描いたような場末のバーが。だだっ広い店内に客はほとんどおらず、真ん中にはなにやら舞台。コークハイ12ケッアル(約200円)。キャッシュ・オン・デリバリーで明朗会計。よろしんじゃない。ちびちび飲んでると何かショーが始まった。これがこの飲み屋にぴったりの、でっぷり太ったオバチャンのストリップ。うーむ、こりゃ辛い。でも部屋に帰るのも恐い。しょうがないので舞台はなるべく見ないようにして、音楽だけ聴きながらコークハイで粘ってました。12:00前にホテルへ戻る。出るときに殺虫剤まいといたんで、なんとか大丈夫みたい。ちょっと不安でしたが、なんとか寝ました。翌朝おきると速攻でチェックアウトし他の宿へ。ちょっと高かったけどまあいいか。
アンティグアへ
その日はTIに行って地図やバスの時刻表をもらったり、銀行で両替したりして過ごし、次の日、スペイン語学校が集まっているアンティグアへ向かったのでした。アンティグアへ向かうバス停で待ってるとオジサンが話しかけてきた。「アンティグアへ行くの?」「そうだよ」「ここだとあと一時間しないとこないよ。すぐ近くのバス停だと5分ごとにくるよ。」「あっそう」「ところでスペイン語学校探してるの?それならいいトコ知ってるよ。実は私は3つ学校もってるんよ。よかったらいっしょにいこう」「うーむ、どないしょか」「ねっ、どうせどっか行くんでしょ。だったらみるだけでもいいじゃない」。ちょっと胡散臭い気もしたが、これも縁?かいなと思ってついてくことにしたのでした。バスはいっぱい来てた。「アンティグア、アンティグア」と車掌?が叫んでる。大荷物を車上に載せて乗り込む。後から後から人が乗ってくる。日本の朝のラッシュに勝るとも劣らない混みよう。しかも途中で何度も止まって客を拾っていく。おまけに飛ばす飛ばす。私は荷物が落ちないか心配でした。約一時間後、なんとか無事にアンティグア着。オジサンにつれていかれたところは、一見ただの民家。でもそこが”学校”であった。さっそくそこの校長(これが貧相なオッサンなんだ)とお話し。何やらもうここに入るのを前提に話してるみたいだぞ。「ちょっと待ったりーな。まだ決めてないよ」「じゃあ、ホストファミリーを見に行こう」本当に動くんかいな、というようなスバルに乗ってその家へ。40才ぐらいの体格のいいオバサンと小さな女の子。部屋も予想してたよりきれいだし、他の学校見るのもメンドイからきめちゃうか?という訳でそこにしてしまったのでした。ここでまた学んだことが1つ。”ダメモトで、一応何でも値切ってみるべし”。学校の料金が値切れるとは思わなかった私は、そのまま払ってしまいましたが、後で他の生徒に聞いてみるとずっと安いじゃん。なんだよ、早く言ってよ。まあ、ともかく学校もホームステイ先も決まったし一安心。
スペインじゃなくてグァテマラ(アンティグア)を選んだ理由として、”安いから”と書きましたが、本当はもう一つ理由があったのでした。”授業がマンツーマンである”ということ。何事も切羽詰まらないとやらない、ナマケモノの私としては、やるしかない状況に自分を置いた方が良いのではないかと考えたからです。マンツーマンではサボるわけにもいかないし、自分がしゃべるしかないし。ある程度予想していたことではあったのですが、いざ授業が始まってみるとこれがけっこうハード。なにせ生徒は自分だけなので、しゃべらないことには全く進まない。当たり前のことですが、いかに自分がスペイン語を知らないかを改めて思い知らされた初日でした。
ユニークなファミリーと学生達
ホームステイ先のファミリーはどんなかというと。
マリア − ホストレディ。多分40才台後半。典型的中南米のオバサン体型。感激屋で、涙もろい。
マルコ − 長男29才。無職(働く気なし)。物静かなインテリタイプ。
ホセ・ルイス − 次男26才。ホテル勤務。大音響で音楽聴く?のがタマニキズ。
ユリ − 長女22才。未婚の母。事務所で働く。
アレハンドラ − 4才。ユリの子供。将来、男を泣かせるタイプ。
カルロス − マリアの友人の子供。21才。この家に居候?している。
マルコ − マリアの前夫。学校の校長。今は他に家庭有。時々食事に来る。
ご覧の通り、なかなかユニークな家族である。しかし、基本的にはみんないい人で、3ヶ月間お世話になりました。ここではもし気にいらなければ、先生もファミリーも変えるのは自由です。実際に毎週のように先生を変えてたり、ファミリアを転々としてた人も少なくありません。私は幸か不幸かどちらも変えずにすみました。
私が居たときは常に他の学生がいました。最初はダレン。ニュージーランド人29才。彼とは2週間いっしょでした。欧米人には珍しく、強引とかわがままとかいったかんじがなく、とても良いやつでした。彼の方が古かったので、色々親切に教えてくれたり、バーやビデオ(映画館がないのだ)につれてってくれたり。とてもまじめで、午前と午後で1日6時間も授業をうけてました(通常午前中4時間)。しかし、アンティグアを離れる朝、マリアたちに何も言わずに出ていってしまいました。
次が日本の女の子Hさん。本業の映画やCMの特殊メイクの他に友達と雑貨の輸入とかもしている、ちょっと不思議な興味深い女の子である。彼女のおかげで、作家の方(「グァテマラゆらゆら滞在記」新潮社
を出した沢村凛さん)などと知り合いになれました。彼女とは帰国後もたまに飲みに行ったりしてます。
Hさんの次の日に欧米人カップル。コンラド(南アフリカ男)とアンヘリカ(ドイツ女)。2人ともでかい。コンラドは映画関係のお仕事。ナチュラル・ボーン・キラーズのお仕事したとか。アンヘリカはよくわからないが、家がけっこう金持ちらしい。彼らに対して悪い感情はもっていなかったが、後にちょっと気まずい関係になってしまう。
最後に日本の男子、E君。20才。外語大の学生。素直な良いやつではあるが、ちょっと自意識過剰ぎみ。まあ、若いってことですか。
では一般的な1日はどんなもんか
6:00 起床
6:30 朝食 (トースト、フルーツ、コーヒー等)
7:00 授業開始
10:00 ブレイク(30分)
12:00 授業終了
13:00 昼食 (トルティーヤ、フリホーレス、サラダ、肉料理、スープ等)
15:00 カフェにてハガキ、日記書き
19:00 夕食
21:00 バーやビデオを見に行く
24:00 寝る
といった感じでした。でも3週間目ぐらいから、「アレハンドラと遊ぶ」というのが加わりました。それまで子供が嫌いというか苦手だった私は、最初すごく戸惑ってました。でも毎日の様に遊んでるうちに、徐々に扱い方がわかってきました。自分になついてくれるというのは、なんとなくいいものです。彼女にしたら、ただ単にちょうどいい遊び相手にすぎなかったのかもしれませんが。とは言うものの、泣かれたりした日にゃ、もうお手上げ状態。マリアに頼るしかありません。本当の母親はユリですが、実際に面倒をみていたのはマリアでした。ユリは仕事を持っていたし、まだ若いので遊びたいということもあってか、アレハンドラと過ごす時間が少なかった様に思います。それは、ある程度しょうがないとは思うのですが、もうちょっと母親であるということを自覚したほうがいいんじゃない、という気がしました。そのとばっちり?でこっちは毎日子供とあそんでやらなければならないのだから。確かにアレハンドラはカワイイし、好きだし、いっしょに遊ぶのは気分転換にもなるのだけれど、限度ってものがあるし(子供には関係ない?)、子守り賃?でももらいたいくらいだ。などと思ったりもしました。でも、今になって考えるとすごくいい思い出だし、子供に対する苦手意識のようなものが、アレハンドラと遊んでいた(遊ばれてた?)ことによって、なくなっていったと思ってます。アレハンドラありがとう。ただ、あまりに彼女が私になつきすぎたために、他の学生(コンラドとアンヘリカ)との関係が微妙におかしくなったのでした。もともとはユリが彼らをあまりこころよく思ってなかったことから始まりました。理由はよくわかりません。後から聞いたのですが、ユリは自分の家に学生をホームステイさせること自体に不満があったらしく、しばしば学生と衝突していたとのこと。そういえば、マルコやホセ・ルイスはよく話し掛けてくれたけど、ユリからはあまりなかったし。またマリアも食事の時など、私と彼らに対する態度が違うのです。一番最初に私に料理を運んでくれるし、食後何も言わなくてもコーヒーいれてくれるし。とどめに、アレハンドラが”ヒデオ・エス・ミ・アミーゴ”(ヒデオは私の友達)とか歌いながら、テーブルのまわり走りまわるし。どうも家のなかに重苦しい雰囲気がたちこめたのでした。結局その状態は彼らが家を出るまで続き、彼らがいなくなったら元に戻ったのでした。私は彼らを嫌いでもなんでもなかったのですが、さすがにほっとしました。後日、彼らに会ったのですが、その時は普通に話しができました。もっとも、ちょっと皮肉をいわれましたが。
アンティグアのスペイン語学校って?
聞いた話だと、アンティグアには40以上のスペイン語学校があるとのこと。学校の規模や設備はピンキリです。私が行っていたところは間違いなく”キリ”の部類でしょう。学校は校長のマルコの現在の奥さんの家に机といすを並べただけのもの。まあ、その代わり安い。ただ、ここアンティグアではどの学校に行くかはあまり問題ではない。どの先生に習うかが、重要。気に入らなければ変えればいい。とは言うものの、日本人の感覚だと、先生を変えるというのは結構勇気がいります。先生の方は完全歩合制なわけで、生徒がつかないとお金にならない。「自分のせいでその人が食いっぱぐれたらどうしよう」とか、「今度学校で会ったとき気まずいなあ」と考えたりするはず。でもここでは、そんなことを考えるのは無意味。先生の方は、それが当たり前というか、慣れっこになってるのか、あまり気にしていない。それよりも、合わない先生と2人だけで勉強するなんて、すごいストレスだし、お金の無駄である。幸い私は、いい先生に一発で当たったので、そういう経験をせずにすみましたが。Hさんの場合、けっこう大変だったみたいです。最初の先生はとてもよかったのですが、ある日突然学校に来なくなりました。後で聞くとヘッドハンティング?されて他の学校に移ったとのこと。次の先生は陰気でやる気なし。その次はセクハラ教師と、なんともついてない。最後はほとんどケンカをしながらの授業になってたとか。でも彼女はグァテマラに1人で来るくらいガッツのある人なので、それなりに楽しんでいた様でしたが。またE君の場合、先生達にちょっとからかわれて学校を飛び出し、大騒ぎになりました。結局、その先生達に会いたくないので、家に別の先生に来てもらっての授業という形になったのですが、それもうまくいかず、彼が学校に居る間は問題の先生達は来ちゃダメヨということで落ち着いたみたいです。うーむ、彼はあの後どうなったんだろう。
学校には色々な国の人たちが集まってます。アメリカ、ドイツ、スイス、ベルギー、カナダ、ニュージーランド、そして日本。私が居たときは日本人が多かったみたいです。
アンティグアの日本人
アンティグアにいる日本人のほとんどはバックパッカー、いわゆる貧乏旅行者である。もちろん、住みついて生活しちゃってる人や、ちゃんとまじめにスペイン語を勉強しに来た人もいますが、いずれも少数派である。私が学校に入った時、2人の日本人がいました。W氏とOさん。彼らはもう1人の日本人N氏と3人でアパートを借りて住んでました。3人とも筋金入りのバックパッカーで、とてもオモシロイ人たちだったので、授業のない土日のうち、どちらかはほとんど彼らといっしょに過ごすようになってました。W氏28才(当時)。アジア、ヨーロッパ、中米を2年ほどかけて旅したとのこと。九州出身大阪育ちで、服飾関係の仕事をしてたんだと思う。”思う”というのは、そのことについてあまり話さなかったから。別に彼だけでなく、旅先で出会った人とは詳しい身の上話などお互いにしないのがフツウである。なぜなら、そこでは日本で何をしてるとか、どんな立場にあるとか、ほとんど関係ないから。どちらかというと、日本でのそういったシガラミなどから逃れるために(消極的、積極的理由から)旅にでた人が多いので、自分のことをあまり話したがらない人もけっこういます。したがって、その人といっしょにいて不快でないとか、旅の情報をもっているかとか、交換できる日本の本をもってるかとかの方が、よっぽど大切である。もっとも長期旅行者に限って言えば、彼らは人間的に極めて常識的なきちんとした人達である。やたらオーヘイな人や、わがまま放題の人にとって、自分1人で何もかもしなくてはいけない、しかも、他人の助けを一切期待できない状況というのは耐えられないのでは。閑話休題。N氏24才(当時)。アメリカ大陸を旅行中の、作家志望のなかなかシタタカナ若者。彼とW氏は絶妙のコンビで、2人の掛け合いはとてもおもしろかった。Oさん27才(当時)。旅行のレポーターの様なものができたらなぁ、と言ってました。彼女はとてもシャキシャキした人で、色んな事をテキパキとこなしてました。彼らのアパートで遊んでた時、彼女はバンコポリー(モノポリーのグァテ版)をしながら、5,6品の料理、それもそれなりに手のかかったものを作ってたりしました。その他に女の子が2人と1人の男の子が、よく彼らのアパートに遊びに来てました。Kさん、Mさん、E君。そんなメンツが集まってウダウダしてる時、よく話題に出たのが、今までの旅での出来事でした。色々な話しが出た中で、私が一番強烈だと思ったのは次のようなお話しでした。
なかなかスゴイ人の話し
N氏がグァテマラに来る前、メキシコに居た時の話し。彼は他の日本人旅行者2人とメキシコシティにいました。仮にA氏とB氏としましょう。問題はこのA氏。大の女好きらしい。ある夜のこと、3人はホテルの部屋にいました。N氏が小説を書いていたところ、A氏が「女買いに行こう」と言い出し、A氏とB氏は夜の街に出て行きました。しばらくすると戻ってきて「ダメだった」とのこと。その後、再度チャレンジするが、またもや失敗。普通ならここであきらめますが、これで終わったのではお話しになりません。彼らは3度目の挑戦を試みます。真夜中、まだ起きて書いていたN氏。ドアをノックする音。開けてみるとB氏が裸足で立っていた。何でもタクシー強盗にあったらしい。よく見ると顔もボコボコ。A氏は金となぜか持っていたカメラを取られ、B氏は金を持っていなかったので、履いていたブーツを巻き上げられたとのこと。そして仕方がないので、他のタクシーに乗り、当然金払えないので、金貸してだって。下にはA氏が人質がわりに待ってる。何をやってんだかって感じですよね。でも、まだ話しは終わらない。タクシー代もなんとか払い、やっとベッドに入ったのですが、A氏のベッドから「ちきしょー」という鳴咽がもれている。他の2人は当然、タクシー強盗にあったことが悔しかったんだなと思ったのです。が、なんと彼が次に言った言葉は「ちきしょー、やりたかった!」。A氏恐るべし。
恐怖の花火牛?
アンティグアで祭りといえば、何といっても”セマナ・サンタ”である。毎年、世界中からこの祭りを観にたくさんの人がやって来る、らしい。私はあいにくそれを観ることができませんでした。しかし、その代わりと言っては何ですが、なかなか珍しいモノを観ることができました。何の祭りだったかは、教えてもらったにもかかわらず忘れてしまいました。ともあれ、その祭りの数日前の日曜日、例によってW氏らのアパートでダラダラしてた時、こんな会話がありました。「ねぇ、今度の祭りに出る”花火牛”見たことある?」「うん、あるで」「あれって、実はすごいメカなんだって。知ってた?」「うそやっ」そう、彼らは去年もこの祭りを観ていたのです。もっともこの一年ずっとここにいたわけではなくて、中米の他の国や、南米に行って、また帰って来たのでした。その時、私には彼らが何を言っているのかわかりませんでした。そして当日の夜、マリアとカルロス、それにダレンとパルケ(公園)に出かけました。最初はサルサバンドのライブ。しかし、みんなあまりノリがよくない。これが南米だったら踊り狂ってるところです。ようやく一部の人が踊りだした頃、いかにも安っぽい仕掛け花火が突然始まると、みんなそっちに気をとられてしまい、ちょっとカワイソウなバンドの皆さんって感じでした。そしてしばらくすると、いきなりロケット花火の音とともに逃げ惑う人々。なにが始まったのかと思ったら、なんとこれが問題の”花火牛”だ。うーむ、確かにメカだ(ウソ)。どういうモノかというと。牛の形(多分)をした、木でできたカブリモノに、いくつかのロケット花火発射用の筒が装着されており、中に入ってる人がそれに火をつけながら、逃げる人々の走り回るというもの。文章で読むだけだと、なんてことなさそうに思えますが、けっこうスリリング。祭りはクライマックス。そうこうしてるうちに雨がふりだしたので、家まで走って帰りました。
エクスクルシオン
しょのいち
アンティグア滞在中、終末を利用して2回遠足に行きました。その一回目。行ったところはサンペドロ・ラ・ラグーナ。世界一美しいと言われているアティトゥラン湖畔の小さな街。パナハッチェルという街までバス、そこからボート。と書いてしまうと簡単なようですが、実際はかなりハードな道のりでした。パナへの直行バスもあるのですが、時間が合わなかったため、ローカルバスを乗り継ぐことに。これがまたメチャ混み。しかも乗り換え地点の名前は知ってても、実際には行ったことがないのでどこで降りたらいいか良く分からない。こんな時どうするかというと、料金を徴収に来た車掌(というんだろうか?)に、「私はドコソコで降りる。でも初めてでよくわからないから、着いたらちゃんと教えるように」と頼んでおく。こうすることによって、まわりの乗客にもインフォメーションを与えることができる。で、どちらかというと、乗客のほうが親切に教えてくれることが多い。事実、この時もそうでした。そんなこんなで、なんとかパナの手前の街に着いた。が、もうパナ行きのバスはない。この時は運良くピックアップトラックの荷台に乗せてもらった。金とられたけど。やっとパナに着いたはいいが、宿がどこもいっぱいだ。20軒以上まわったがどこもアウト。道のはずれで、もうこの先はなんもないという宿にも断られ歩きだしたところ、「ところで何人?」と聞かれ、「1人だ」と言うと、「じゃぁ、OKだよ。2人だと思ったんだ」とのこと。どこにもう一人いるんだよ!とちょっとムっとしたけど、とりあえず寝場所確保。次の朝早く、船着き場へ。ここで一悶着。W氏から「地元の奴と同じ料金で行けるハズや。向こうの言い値払ったらあかんで」と言われてたので、取りたてに来たオヤジと交渉。色々やりあった挙げ句、「降りろ!」のお言葉。無視してると、今度はちがうオヤジが。またァーでもない、コーでもない、と粘っていたのですが、他の客、特に欧米の観光客の冷たい視線に耐え切れず、しぶしぶ払ったのでした。サンペドロ・ラ・ラグーナ自体は特に観るところはありません。ただウルティマ・セナ(最後の晩餐)という名の食堂があり、私的には、そこに行くためだけに来た、と言っても過言ではありません。そこは我々の間では”食のワンダーランド”と呼ばれていて、想像もつかないようなモノが出てくるとのこと。早速行ってみました。まずコーヒー。グァテのコーヒーはたいてい不味いのですが、ここのは天下一品の不味さ。これを飲んでコーヒーだという人は日本人にはいないでしょう。うすいシナモンティーに変な甘みを加えたものと言ったら、なんとなくわかってもらえるでしょうか。次いで、パンケーキ。これまた強烈。ピザ生地の上に色々な果物(パイナップル、すいか、りんご等)がのっていて、その上にヨーグルト、さらに何かの木の実とはちみつ。こんなパンケーキあらへんで。でもおいしい。思わず写真を撮ると、近くにいたオネーちゃんが「私も撮って」だって。それからしきりに「おいしいか?」と聞く。ずっと見てる。確かに半分まではおいしかった。でも、これ、やたらでかいのよ。残そうと思ったけど、隣でじっと見てるし。吐き気と闘いながら、死ぬ思いで食べました。他にもスゴイ料理があるらしいが、ギブアップ。
エクスクルシオン
しょのに
二回目の遠足は北部の街コバン周辺のセムック・チャンペイとラス・クエバス・デ・ランキン。ここは学校の先生がいいと言ってたので、行くことにしたのでした。彼女は生徒達とツアーを組んで行ったらしい。「そうした方がいいよ」とのアドバイスも聞かず、「行きゃなんとかなるでしょ」と、いつものイイカゲンな気持ちで出かけました。今回は長距離なので、それ用のバス。シートもしっかりしてるじゃん。良きかな良きかな、と思っていたのもつかの間、一時間ほど走るとド渋滞。動く気配すらない。チョフェール(運転手)も理由がわからんらしい。そうしてる間に、どこから現れたのか商売熱心なオバチャンや子供たちが、食べ物や飲み物を売りに来た。これはグァテマラでは一般的な光景である。バスが止まると、客といっしょにこういった物売りの方々も乗り込んでくる。なかには説経(多分)だけしてく人もいる。そしてバスがでる直前、もしくは次のバス停まで商売をして降りていく。また、バスの中には入らず、窓で品物や料金のやり取りをする場合もある。これは南部アフリカでもよく目にした。なかなかいいものである。話しを元に戻すと、約2時間後やっと動き出した。渋滞の原因は落石。直径10mぐらいの大きな岩が2つ、道路をふさいでいたらしい。そんなこんなで夜コバン着。早速、宿のオニイチャンにセムック・チャンペイとラス・クエバス・デ・ランキンへのツアーがあるか尋ねると「そんなもんあらへん。でもランキンまでのバスはある」ということだったので、翌朝早起き。ランキンまで約3時間。さて着いたはいいが、これからどないしょ。ハラへったからまずメシだ。とりあえず近くの食堂で食事をしていると、一台のランドローバーが店の前に止まった。観光客らしい。ガイドらしき人に聞くと、なんとセムック・チャンペイとラス・クエバス・デ・ランキンへ行くとのこと。交渉して30ケツァルで後ろに乗せてもらうことに。ラッキー。しかし私は重大なミスを犯していたのだった。セムック・チャンペイは急流が地下にもぐり、少し離れたところに池があらわれるというところ。ラス・クエバス・デ・ランキンは洞窟なのだが、そばに川のようなものがあって、ここも泳げる。ガイド曰く「ここは水着もってこなくちゃ楽しくないところなの」。ほんな事いうたかて水着もってきとらへん。クラウディア(先生の名前)、ちゃんと教えてよ。
初体験
この長期の旅自体が初めてだったわけですが、グァテでもいくつかの初体験がありました。馬に乗ったり、子供と遊んだり。そしてマリファナ。はっきり申し上げて、以前も興味なかたし、現在もそうなのですが、”何事も経験だ、やってみないことにはワカラン”という訳で、そういう機会があったので試してみました。でも「なにこれ?」って感じで、「これだったら酒の方がずっといいや」というのが正直な感想です。もともとタバコが大嫌いなので、吸い方がよくわからない。「肺にためるようなかんじで」とか言われてやってはみるが、鼻からモコモコ出てくるし。全然気持ち良くならんじゃないの。でも他のみんなはけっこうハイになっちゃって楽しそうだし。しかたないので、酒飲んで追いつこうとしてました。また、アティトゥラン湖に行く時に「マリファナ買ってきて」と頼まれました。購入できるところを3ヶ所ぐらい教えてもらったので、着いたらすぐ、そのうちの一つに行ってみました。しかし、いるはずの白人の主人がいなくて、お話しにならず。次のところはコンタクトするべき人物が出かけていて、夜来いとのこと。最後のところは閉まってました。夜、二番目のところに行くと、それらしき人がいました。「ホセ(仮名)はいるか?」「オレだ」「ナニが欲しいんだけど」「いくつだ」「2包みだ」といったところで停電。グァテマラではよくあることなのですが、場合が場合だ。脈拍が速くなる。すると「おいっ、これがそうだ。200ケツァルだ。人が来るから早くしろ」。聞いていた相場よりかなり高いし、モノもなんか小さいけど、ちょっとビビッてたせいもあって、金を払って宿に帰ったのでした。落ち着いたところで包みを開けてみると、中に入ってたのは白い粉。「こりゃヤバイんじゃないの」と思い、急いでトイレに流しました。その後、コロンビア・エクアドル国境で麻薬犬の検査があった時、ちょっとドキドキした私です。
そして別れ
長かったアンティグアでの3ヶ月も終わり、コロンビアに向かうことにしました。グァテのビザは3ヶ月間なのですが、一度国外に出れば、また3ヶ月もらえます。まだマヤ最大の遺跡”ティカル”にも行ってなかったのですが、このまま南米に飛ぶことにしました。一つは、日本の友達とペルーで会うことになったから。もう一つは、動きたかったから。気に入ったトコロにずっといるのも、それはそれだ楽しいのですが、やっぱりある程度じっとしてると移動したくなるものです。後で考えると、もうちょっとあそこにいればよかった、などと思ったりすることもあるのですが。そんなこんなで最後の夜、マリアが私のためにご馳走をつくってくれました。夜遅くまで、飲んで色々な話しをしてました。そして翌日、別れの時、感激屋のマリアは泣きながら「ここはグァテマラのあなたの家よ。いつでも帰ってらっしゃい」と言ってくれたのでした。アレハンドラは頬に2回キスをしてくれました。家から離れ何度か振りかえると、ドアのところにアレハンドラがずっと立っていました。ちょっと泣けました。