| Ensayo ラテンなエッセイ |
★ メキシコ・シティ在住のライター、上野清士さんが、魅力的なラテン・アート
について紹介してくれます!
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上野清士のラテン・アートギャラリー
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「写真屋チェ・ゲバラ」 「イサム・ノグチと恋と壁画と」 「日常の闇を肉体で加工し極北で表現する」
「透明な無音のシンフォニー」 「名もき画工たちの喜怒哀楽」 「紛争の地コロンビアの画家ボテロ」
「"骸骨"の風刺画家 ポサダ」 「雨に濡れた舗道の夢想」 「虚構のなかの冷たい幻想」
「リトアニアからブラジルへ、故郷喪失者の人間の実在性を凝視する視線」
◆ はじめに
ラテン・アメリカの現代文化というと、どうも「音楽」を先行させて語らせてしまうところが常態になっていると思います。確かに、豊潤なラテン「音楽」の魅力は尽きないわけで、現に筆者自身、「音楽」関係の原稿を書く機会がすこぶる多い。しかし、文化というものは、ある分野が突出していたとしても、そこに必ず多様な文化世界を道連れにしているのは古今東西の歴史が示す通り。そこで、もっとも日本から見えない、あくまで日本からですが、「美術」について紹介していこうと思うのです。
但し、その原稿の大半はすでに発表したものです。ただ、こうした原稿は雑誌が店頭から消えてしまうと、本にでも纏めないと新たな読者は獲得できない。そこで、再度、日の目を見さして上げようという“親ごころ”からの企画です。無論、再録にあたって現在も有効であるという前提で選んであり、発表当時に思い違いしていたことなどを発見すれば手を加えることもあります。どうか、「音楽」に劣らず豊潤な美術世界を知って戴きたいと思います。 (メキシコ市在住・上野清士)
◆ 写真屋チェ・ゲバラ
メキシコで日銭を稼ぐ街頭写真屋を開業
「僕はおおかたの写真家と比べても遜色ない腕前だし、写真仲間の間では確かに一番うまいんですよ」
一九五四年、二六歳のゲバラがメキシコから故郷アルゼンチンの母親に送った手紙の一節だ。
中米グァテマラのハコボ・アルベンス大統領が果敢に推進していた社会主義路線に共感し、ベネズエラで医師として働くことを止め同国入りする。しかし、米国の武力介入によってアルベンス政権が倒れるとメキシコに逃れた。そして、生活費を稼ぐために観光客が集まる市内の行楽地にたむろし、「一枚、記念にどうぞ」「可愛いお子さんの写真をどうですか」と売込み口上を述べながら雑踏を徘徊する街頭写真屋になった。
街頭写真屋なら高度な技術はいらないが、この時期、メキシコでパンアメリカ競技会(カリブ・米州大陸の五輪のようなもの)が開かれ故国の通信社の依頼で取材している。この時の写真がなかなか優れもの。特に記録性より、運動選手の躍動美を捉えた作品に優れている。そう本展はメキシコ時代、キューバ入りしてからの革命戦争の時期、そしてキューバ政府を代表して各国を訪問した際に撮られた私的なポートレートまで含むゲバラの写真約二百点を並べたものだ。知られざる、とはよく謳い文句に使われるが、これこそゲバラの知られざる仕事展といってよいだろう。
これまで被写体「ゲバラ」の写真展は世界各地で行われてきたが、ゲバラが撮った写真展は始めてだ。話題にならない方がおかしい。
おそらくメキシコ市内、いや国内(首都へ物見有産の旅をする地方在住者は多かっただろうから)にはゲバラが撮ったとは知らず、家庭のアルバムのなかに張り付けられたままの写真が数百点あるだろう。しかし、これはもう出てこない。永遠に埋もれたまま、やがて褪色して捨てられるのだろう。
ゲバラはカストロたちとキューバの東部のシエラ・マエストラ山中の苛酷なゲリラ戦の日々のなかでもカメラを傍らに置いていた。その数点の写真は、ゲリラ活動を伝える貴重な記録となっている。革命政権樹立後、ハバナ市中に建設されたホセ・マルティン広場の建設風景、あるいは工業大臣として激務をこなしながら、革命の成果として建設される新工場に完成する機械や設備の形態をシンボリックに捉えた写真群も面白い。そこにはいささかの記録性もない。
59年、政府を代表して日本を訪問した際、公式行事の合間をぬって広島を訪ねる。その際、平和公園の静謐な佇まいは、その時のゲバラの心情が投影されているようで、見ていて厳粛な気分になってくるのだった。
ゲバラのグァテマラでの活動というのが、色々な文献を読んでも曖昧な部分がかなり多い。手放しでゲバラを称賛する評伝のたぐいは特にグァテマラで「献身的な医療活動を」と書いたりするが、その「活動」の実際は分からない。筆者は大した貢献をしていなかったと思っていた。そうした疑問が、本展を見て納得できたような気がした。というのはグァテマラ国内に散在するマヤ遺跡をまめに訪ねているのだ。それが彼の写真で分かった。グァテマラでの生活は約半年に過ぎない。そのあいだに、これだけ地方回りしていれば、そうそう活動に身が入るわけがない。とそんなことも分かる。
また当時、高価格であったカラーフィルムを潤沢につかったメキシコ・ユカタン地方のマヤ神殿都市遺跡シリーズともいうべき作品も遺していた。
ゲバラは医師免許をもっていたが、写真家としてもそこそこやっていける技術と感性、創造性もあったと思う。しかし、ゲバラはもっとも困難なゲリラ闘士として、メキシコの浜からグランマ号に乗ってカストロ兄弟たちと船出したのだった。
後年、革命政府の重職を捨て、ボリビア山中でゲリラ部隊の指導者として戦いつづけ、待ち伏せ攻撃にあい捕虜となり処刑された。その際、ゲバラの背嚢のなかから一枚の写真が出てきた。ゲバラが撮ったといわれるボリビア山中の同志であったドイツ系アルゼンチン女性タニアの水着姿の写真だ。
ゲバラは筆まめでおびただしい書簡、日記を遺したが、写真も彼の重要な自己表現手段だったと思う。ただし、キューバに入って以来の戦いの日々、バチスタ政権打倒後、待ったなしの閣僚としての超多忙な生活のなかでは思う存分、シャッター・チャンスを狙う時間がなかった。インドで、おそらく公式行事の移動中、車窓から街頭風景を撮っている。路上を徘徊する牛を撮ったものだが、その牛の頭部が人影に一瞬、入った。しかし、撮り直す時間はない。私的な興味を公的な身が押しつぶす刹那を捉えたような写真だ。それ故、平和公園を写した作品に沈着したゲバラの心象風景は尊いものだと思った。
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● チェ・ゲバラ写真展の会場で
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* 2001年11月から2002年1月末までメキシコ市内オリン・ヨリツリ文化センター。以後、欧州主要都市を巡覧予定。 (掲載は、『社会新報』2002年3月13日号) * 後日談・本稿の掲載で当然、ゲバラの撮った作品を使いたかった。しかし、図録は発売されず、会場での撮影許可も降りなかった。ならばと、本展終了後に訪れたキューバで探したが皆無。雑誌や新聞に数点、掲載されることもあるのだろうが、「特集」はない。各種各様のゲバラ写真集はたくさんあり、大同小異の内容であったみれば、「ゲバラが撮った写真の」図録を発売すれば、そうとうの売上げを期待でき、強いては政府の外貨獲得政策に寄与するのではないかと思われるのが、どうもそうした計画はなさそうだ。欧州展で発売されるかも知れない。このゲバラ写真を使えない、ということで日本の優良な美術雑誌などで紹介することができなかった。写真さえあれば、いつでも掲載の準備ができていたのである。 |
このところ、メキシコ・シティの旧市街で、終日喧噪につつまれているアベラルド・ロドリゲス市場にある縦約二メートル、横約二〇メートルの壁画が注目をあつめている。
日系米国人イサム・ノグチ(1904〜88)の壁画《メキシコの歴史》(1936)である。もっともメキシコを象徴するような記号はほとんどなく、欧州でのファシズムの台頭を敏感に捉えて造形化した一種のプロバカンダ的作品である。メッセージ色の希薄なノグチ作品には珍しく、ナチの鉤十字に押し潰される人間、肉体労働者たちのものであることを象徴する腕と拳、鉄骨やらツルハシなどを直裁に描き、量感と躍動感に満ちている。
この壁画はながいこと忘却されていた。ここに来てにわかに注目されたのは、市内のルフィーノ・タマヨ美術館でノグチ回顧展が開かれたからだ。会場に参考資料としてこの壁画の大判写真が展示され、訪れた市民たちのあいだで、「え、こんな壁画も作っていたの?」「どこにあるの?」と、ちょっとした話題になったのである。回顧展では、パリ留学時代にブランクーシの助手を務めながら制作した初期作品から、舞台美術、造園プロジェクトまで約50点の作品が紹介された。
そもそもノグチがグッゲンハイム財団の留学資金を得てメキシコ・シティを訪れたのは一九三六年、31歳のときである。市当局は、制作スペースとして、イエズス会の元神学校を改造した市場の階段の踊り場に面した壁を彼にまかせた。そして、ノグチは多色セメントとレンガ彫刻による立体的な複合壁画の制作に八カ月奮闘することになった。
壁画運動がことのほか活発だったメキシコには今も無数の壁画が散在する。シケイロスやディエゴ・リベラ、オロスコらが主導的役割を果たした壁画運動は、一九二〇年代前半にメキシコ革命の煽りを受けて点火され、三〇〜四〇年代に最盛期を迎えた。それ以後も、五〇年代の沈静時代を経て、今日まで夥しい壁画が制作されてきている。
メキシコに来ると誰でも政治意識に目覚めるのか、それとも壁画運動の高揚感に煽られるのだろうか。造形じたいは類型的だが、ノグチの壁画には、力任せに壁に取り憑いた若い息吹が確かにどどめられている。ノグチはその時期、壁画制作の一方で、リベラの夫人フリーダ・カーロに夢中になっていた。十代から共産党のシンパだったフリーダとの恋愛もまた、反ナチ的な壁画づくりに大きな影響を与えただろう。
市内南部、通称“青い館”と呼ばれ、現在美術館となっている建物は、元もとフリーダとリベラが新婚生活を送ったところだ。ここにはスターリンの追及を逃れ、リベラの手引きでメキシコに亡命してきたトロツキーがしばらく滞在したこともある。その家の寝室にノグチは足繁く通った。リベラはリベラで大作壁画の制作と、若い愛人との情事で大忙し。そんなある日、ノグチとフリーダの不倫は発覚してしまう。密会用のアパートを借りようとした二人の引っ越し費用の請求書がリベラの手元に届いてしまったのだ。リベラはピストルを片手に二人の寝室を急襲。ノグチは片足だけ靴下をはき、中庭のオレンジの木によじ登り、屋根づたいに遁走した……。
フリーダとの情熱的な愛といい、社会参与を意図した壁画といい、これはメキシコの熱帯高原の大気がノグチの五臓六腑を浸したせいだとしか思えない。
ノグチがセメントを捏ねていた頃、おなじアベラルド・ロドリゲス市場の壁や天井に張り付いていた若い画家たちがいた。パブロ・オイギンス、アントニオ・ブホル、マリオン・グレース・グリーンウッド……。彼らの壁画もまた忘れられ、無惨な状況にある。零細店舗が折り重なるように蝟集する市場は終日、客寄せの声、ラジカセの割れた音に満たされている。ぎっしりと並べられた野菜や豆など日々の食糧品のあいだを、買い物客がひっきりなしに往来する。塵芥が舞い、段ボールが壁に沿って積み上げれ、ときには清涼飲料水が飛び散るとなると、壁画には驚異である。
この市場のある界隈は観光地図で見向きもされず、自らを“中流”と意識するメキシコ市民も近寄りたがらない。在留邦人たちも、誰が言い出したのか知らないが「危険」で「汚い」場所と敬遠する。元来、壁画運動は識字率の低い民衆に対して、公共の絵画でもって民族意識や労働者の権利意識を教宣し目覚めさせるという社会運動の側面があった。民衆の日々あつまる市場ほど壁画にふさわしい場はなかったはずだが、運動が下火になれば、貴い理念もきょう明日の生活に追われる庶民に無縁な存在になるということか……。
ノグチの壁画は、零細店主たちの会合に使われる階段の広い踊り場に設置されている。せっかく回顧展で再認識されても「危険」とされる区域にわざわざ足を運んでみようという美術鑑賞者はいないようだ。取材のため幾度か訪れたが、いつも深閑として誰もいず、壁画をなで上げても咎める者もいない。
| * 掲載誌・『芸術新潮』一九九九年11月号 * 後日談 この記事を読んだ数人の日本メキシコ学院の教師たちが市場の場所を教えて欲しい、と言ってきた。ともかく終日、雑踏する界隈で車で行くことも勧められないし、駐車場もないので、歩いて行く場合は教示したものの。その後、壁画と対面したという報告もないので、おそらく訪れていないのだろう。そう、ここを知る日本人は極めて少ない。 |
![]() ● イサム・ノグチの壁画「メキシコの歴史」部分 |
◆ フランセス・トルネラー 日常の闇を肉体で加工し極北で表象する
「同時代の肖像画―相似点を見出しつつ」展
標高2400メートルのメキシコ盆地の1月、朝夕の冷え込みはさすがにきついが、白昼の陽は鋼のように強靱で眩い。その陽光をふんだんに取り込むように設計された似非カトリック教会様式の天井のやたらに高く、不安定な居心地の悪さすら覚える空間をもつ奇形の美術館で、「禁忌」に挑戦するような深い暗色の闇、動かぬ闇から浮き出てくる裸体像の並べた個展が行なわれてる。尋常な裸像ではない。
かつてハンス・ベルメールは人形の肌に縄目を食い込ませ、色相のない無機質な地肌に歪みをあたえ、肥肉を強調させたのだった。それはベルメールの顰めた吐息のような陰湿な遊びに過ぎないが、しかし、その作業は倦ずおこなわれていたに相違ない。幼女の温かな指や唇に愛触される至福も知らないまま陰湿な加虐の対象にされた人形族は、まぎれもなく未だ異性と交わったことのない少女像。ベルメールは生身の少女の身代わりに人形を使った。いや、彼の脳裡にはすでに次なる対象として、処女は捕捉されていたのかも知れないが、ついにベルメールは生身の処女を素材に「作品」を完成させることはできなかった。縄目を這わせた人形はベルメールの孤独なためらいを克服できなかった永遠の猶予期間を象徴したまま止まっている。
そんなベルメールが志向した地平から数段、突き抜けてしまった女流画家が英国から浮遊してきた。
フランセス・トルネラー。ブロンド、冷たい碧眼の美女だ。
フランセスは98年から約3年、アトリエのなかで「禁忌」に挑戦する沈着にして狂熱的な作業をつづけていた。
フランセスがモデルとして乾いた恥辱を与えた男女は、たいてい肢体不自由者であり、しかも若くない。肉は弛み、性器は艶も生気もない。20世紀の道徳は、肢体不自由者をいたわれと教えてきた。その一方、権力者たちは制度的に隔離することも捨てはしなかった。その二律離反は常態でありながら、日常生活者は白昼の世界に棲みたがり、慎重に己の闇を押さえ込もうとするとを選択した。重ねた着衣は、その隠蔽の道具であった。だから、そのフランセスは、着衣をことごとく引き裂く必要があったようだ。……それは画家として。しかし、画家である前に、人間としてモデルと接するとき、彼女は丁重に着衣を折り畳んで、生身の「個性的」な常態ではない肉体を晒して貰えることに感謝していたのではなかったか。
フランセスはそんな裸像と飽くなき闘争をつづけてきた。彼女の描く裸像には、羞恥の片々もない。裸像は何故か自信ありげなのだ。モデルさんたちは、羞恥を克服したのか、あるいは画家に挑むような視線だけを分別してフランセスは描いたのだろうか。それは分からない。彼女は、肢体不自由者の肌に、筋肉に絡みつかせるように細い紐で呪縛する。捕らわれた肉体から苦痛を耐える気配はでていない。ひたすらあるがままを真摯に受容せる人びとの姿。むろん、裸像にマゾ的な慰安もなければ、絵筆持つ画家にサド的な歓喜もない。ただ肉体を通した批評行為があるのみだ。肉体を締め付ける革ひも、あるいは鋼によって歪む肉体を諦観する視線すらもないのだ。
フランセスは語る。
「彼らにとって、肉体的にハンディを持つことが社会的にどんなことか、を描きたかった」と。
そうなのかも知れない。しかし、かくまで辛らつに、肢体不自由者を赤裸々に描く必要があったのか。初老のおんなが撓んだ腹部のしたに宿す逆三角形には、すでに陰毛すらすり切れてしまっている。これは何を意味するのか、まさか挑発とは思えない。しかし、もし、女の挑発が真剣であるならば意味は違ってくる。あるいは、一曲二双の屏風立にした両面絵画が立てられている作品には、自ら腹を引き裂き、悪魔の卵子のような黒ぐろとした粒子が湧き出すように零れ落ちる女の鮮烈な裸像である。その女は歓喜の極北で身をよじる。これはなんなのか? フランセスの性的な渇望と、批評を歪める権利はこちらにある。そう彼女の能動的な批評行為を否定してゆけば、先天的な肢体変形にさらなる加虐を与えた、いわば天然の歪みと、人口的歪みの共存、あるいは格闘させた、ということにもなる。しかし、それこそ現代社会の歪みそのものだ、と喝破するなら、それはそれで肯定するしかない。しかし、この惑乱はなんなのだ。
もし、貴方が性的な悪戯心から、もし軽侮なサド的趣味、あるいはマゾ的趣味に興じる程度で日常性に戻っていけるような人なら、フランセスの世界を覗かない方が懸命だ。個展出品作28点は、白昼の光のなかで地獄を見いだせる冷徹な知識の保持者にのみ特権的に与えられた密かな企みにも満ちた世界とも解せるからだ。
フランセスは、おそらく9月11日、世界貿易センターに激突してゆく機上の人々の一瞬の恐怖、テロリストの今際の歓喜を一幅の絵のなかに共存させうる喫水線上の画家だ。絶対零度の視線を獲得し、かつ躊躇することなく、その成果を放射できる画家、いや選ばれた人間の孤独がそこにある。他者の誹謗を打ち返す怜悧な蔑む笑みを湛えることのできる画家、いや人間だろう。
この人間、かりそめの日常を過ごす記号としてフランセスという名をもった女性は、やがて人体解剖のメスをさらに研ぎ澄まし、次ぎなる獲物を、現代社会批評の名を借りて生け贄に晒すように思えてならない。極北へ昇りつめようと企む表現者の孤独は一個の狂気そのものなのだ。誰か、そのブロンドの髪を鷲掴みにして、衣服をはぎ取り、街路を転がして、彼女の侵した「禁忌」を述べ立てるような蛮勇でも発揮するものはいないか。私たちの住む、日常の闇がこれほど深いとは思いたくないではないか……。しかし、私は知っている。人間社会の闇は今世紀、さらに深くなって行くことを。故に、彼女の表現行為は尊重されなければいけない。目を背けてならない。ここにある表現は紛れもなくわれわれと同じ大気のなかから酸素と水素の化合物を吸い込む霊長類の人類、性別・女性が描いたものだから。
筆者は無責任にもブロンドの髪をひっつかめと嗾けたが、髪に触れる前にたいていの男たちはフランセスの碧眼に居すくみ、モデルとして役立たず、希有な歪みももたない平凡な肉体しかもたないことに恥じ入るだけだろう。もっとも、健康的な男も、「わが肉体をあなたの解剖用メスに提供したい」との覚悟でもあれば、それは別の話になる。
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● 自作を両脇においたフランセス・トルネラー
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* CHOPO大学美術館(メキシコ市)/2002年1月。この稿、未発表。 * 後日談 : 本稿、未発表になったは、有り体にいって「没」となったから。イベントの印象があまりにも強く、これは何か書かねばならないと思って、発表のあてなく書きはじめた原稿だったからだ。こういう原稿は年に数本ある。でも、いったん生み出したら、どこかへ掲載したと思うのは物書きの本性(ほんせい)。そこで、色々検討したが、画家がメキシコ人でもないし、従来関わっている媒体では少々、無理。そこで、テーマ性から言って、この際、S&M誌でも良いのではないかと思い、その手の某有名誌に連絡。編集長自らメールを戴いた。ところが、その手の雑誌は、「画像」が決め手である。ところが、本展では図録が制作されていなかった(メキシコでは良くある)。取材で作品撮りすることは著作権の関係で適わない。既成媒体に発表されたカット写真しか手元にないため、「画像」での訴求力は著しく見劣りする・・・といったことで、結局、「没」にするしかなかったが、手元に原稿だけ残った。 |
◆ 透明な無音のシンフォニー メキシコに魅せられた日本人画家キシオ・ムラタ
「一日がさまざまなイメージを描くように
私はメッセージを描く
その上をふたたび還ることのない風が吹く」
メキシコのノーベル賞詩人オクタビオ・パスが日本人画家キシオ・ムラタに贈った詩。1988年11月、メキシコでの活動30周年を前に詩人は、俳句を詠むようにムラタの絵画を詩で評した。
パスを魅了した絵は親密な情感をたたえた抽象の世界だ。そこにクレー、カンディンスキー、あるいはミロの思い出を読む人もいるだろう。しかし、1932年、画家21歳、二科展に初出品、三点入選した時代に、すでに純粋抽象の世界を独歩していた。これは特筆されてよい。が、ムラタの名と絵画は日本現代美術史の舞台で通行人の役しか与えられていない。
64年以来、メキシコに創作活動の場を移し、92年に81歳で死去するまで日本画壇と没交渉になったからだ。死を予感したのだろうか、91年、離日以来、最初にして最後になった日本での個展を名古屋で開く。31年ぶりに開いた個展も、ムラタの評価を日本に定着させるまでに至らなかった。
ここでメキシコでの評価といった常套的な比較を行うと……シケイロス、リベラ、オロスコなど壁画運動の推進者たち、あるいはフリーダ・カーロ、メキシコ的なる熱情を視覚化した綺羅星の代表作を常設する近代美術館で二度の個展を開いた画家、というだけで十分のはずだ。メキシコに長期滞在し創作活動を行った日本人画家は多いが、ムラタのほかに近代美術館の壁に自作を掲げた者はいない。
ムラタが生涯、紡ぎつづけた世界は、すべて平和への祈願でもあるような親密な、そして透明感に満ちた音のないシンフォニー。不協和音の気配もない調和。不快なところが一切排除された至福の世界でもある。今日的な言葉でいえば「癒しの世界」とでもなろうか。
いま、ムラタの大作約20点がメキシコ市内の日系企業ホテル・ニッコー内の豊かな空間を持つロビーを中心に展示され、様ざまな言語が飛び交うなかで悠々と静謐な和みを醸し出している。
「日本人の目に触れる機会の少なかったムラタさんの絵を、日本人の利用の多いホテルとして場を提供したかった」という同ホテルの鈴木支配人の熱意が実現させた企画だ。
漢字で表記すれば、村田簣史雄、となる。1910年、名古屋市生まれ。17歳、湧き出るイメージにしたがって抽象絵画を描きはじめ、二科展への初出品以来、若手のホープとして期待される。当時の美術雑誌も挿画付きで注目している。戦後は行動美術会の中心画家として活動を再開し、47年には文部省美術展覧会委員となったと年譜にある。画家30代後半の履歴だ。世知に長けた画家なら、ここで画壇の俗と、芸術の純を調和させて世を渡っていこうとするだろう。ところがムラタは新規で直しを図る。勇断だが、ムラタ本人はより創作活動の容易な地に移った、というに過ぎないのだろう。その辺りはムラタ未亡人から興味深い逸話をたくさん聞かせてもらったが、ここで紙幅の関係で披露できないのが残念だ。そう、ありていに言えば、日本での“名声”を捨て、アトリエをメキシコ市に移した。
メキシコは懐が深い。1920年代に胎動を開始した壁画運動の熱狂的な高揚に誘われて欧米、近隣ラテン諸国から多くの若い才能がアステカの大地にはせ参じ、根付いてしまった者もまた多い。そんな彼らが同国美術史で言及される場合、等しくメキシコの画家と遇される。必要がなければ国籍も明記されない。ムラタもそれを好ましく思っていたにちがいない。
現在、同国画壇の頂点に立つのは日系人画家ルイス・ニシザワ氏だ。同氏が、マエストロ(先生)と仰いだのがキシオ・ムラタであった。
| * 初掲載紙 : 『中日新聞』2001年6月19日号。 * 後日談 : これを「中日新聞」に書くきっかけとなったのは、なんとバンドネオンの小松亮太さんとホテル・ニッコーのなかで親しく歓談したことから生まれた。ニッコーの当時の支配人氏がムラタ夫人と親好があり、遺作をニッコー内に展示してからで、それを小松さんとの歓談中、「良い絵だな」と横目で眺めていたことがきっかとなって、後日、支配人氏に頼んで、あらためて取材させていただいのだ。おそらく、小松さんとの歓談から、彼のインタビュー記事と、ムラタ絵画評の二本の原稿が生まれたのだ。これも、当時のニッコー支配人S氏に負うところが大きい。現在、S氏は神奈川県で悠々自適の引退生活を楽しんでおられる。それから、まだ確定したわけではないが2年後、メキシコ市のルフィーノ・タマヨ美術館か国立近代美術館で「キシオ・ムラタ回顧展」が開催される予定とか。 |
![]() ● 「メキシコへの道」(1988年) |
ブラジルの作家ジョルジェ・アマードの小説『果てなき大地』は、北東部バイヤ州「黄金のカカオの大地」イリュウス市の生誕から成熟の年代記を説話的リアリズムで織りなした物語だ。その一節に。
「村や町に立つ市(中略)。この地方では盲人が詩人であり、年代記作者であった。その物乞いの歌声を通して、カカオの歴史と伝統がギターの弦の中に永遠に生き続ける。市の群衆、キャッサバの粉やとうもろこしやバナナやオレンジを売りに来る男たち、買い物にやってくる男たちが、今世紀初頭のカカオ時代の幕開けの話を聞こうと盲人の周りに集まってくる。」(武田千香訳/新潮社刊)
「今世紀初頭」とは20世紀のそれだが、小説の舞台となった北東部各州の町や村の市では1800年代から「コルデル」という簡便な民衆本が定番の商品となっていた。イベリア半島に流布していた説話、民間伝承の類いを原作に、北東部の自然や習慣を取り入れて翻案した読み物で、日本でいえば江戸時代の黄表紙、近代の講談本に近い存在か。たいてい千部初刷の売切りで、聞かせどころを講談調で語り、あるいはギター片手の売り子が大道芸人宜しく歌いながら売ったものだという。おそらく、アマードが描く市の一隅では、「コルデル」が叩き売られていたはずだ。
少部数の安価な本だから、表紙や挿絵には経費は掛けられない。そこで、印刷工房の器用な労働者が木版を刻んで刷り込んだ。木版の技術や刷り絵の具は、僻地にも果敢に入り込んで行ったイエズス会の宣教師によって伝えられたものだという。
本展は、「コルデル」を媒介にして始まった北東部の「民衆木版画」を140点余りを集めたものだ。それは、すこぶる興味深いモノで、アマードの小説の各所に挿入したら、読者のイメージは豊穣になること請け合い。
本展の図録序文でメキシコの民衆版画家グアダルーペ・ポサダが新聞や雑誌、コリードの楽譜に刷り込んだ木版画への共通性が語られている。ポサダは時代と真摯に切り結んだが、ブラジルの画工たちは総じて社会性は希薄だ。しかし、作品の「文章」の価値が漸減してゆくのと反比例して、「絵」の再検証が始まった事情に関しては確かに共通性がある。
ブラジルの画工たちが取り組んだモチーフそのものは極々、限られたものだ。それはナイーフ・アートの特徴だが、みな手近の素材、農村の生活の機微、密林の幻想、聖者の物語、男女の愛憎、祭……弛まずして、某時代・某地方に暮らす民衆の哀感が描き出された。そして、繰り返されるパターンのなかで成熟してゆく定番。そう「コルデル」から離れ一枚物の商品となったものも多々あるようだ。縁日の喧噪のなか日焼けしながら買い手を待つ廉価な商品だった。
A.Fとの署名による「黒いドラゴン」、J.C.L署名の「カーニバルにやってきた」などは、類型が繰り返し刷り込まれるうちに、自然と成熟していって完成された傑作だと思う。一連の祭日モノからは確かな喧噪の気配が立ち上ってくる。しかし、技法そのものは低劣である。
彫刻刀にしても、大雑把に切り払う刃と、細部の仕上げ用、手持ちは2本ないしは3本ではないか。粗いが、故に独特な味わいが生じている。
こうした北東部の民衆版画の存在が注目を浴びるきっかけとなったのは、1950年代。時あたかも、北東部に文学ナショナルリズムの流れを受ける作家たちが次々と登場し、彼らは自分たちの周囲を親密に眺め、民衆版画を「発見」する。そして、新作の挿絵などを画工に依頼する者が出てきた。そうして、他の地方にも知られる契機を作る。そう、アマードもそうした北東部の作家であった。
しかし、それが持続的な仕事とはならず、いつの間にか画工たちの名が消え、「コルデル」そのものも時代の役割を終えた。画工が無名のまま消えていったのは、気鋭の新作に即応できるほどの読解力、抽象能力に乏しかったからだ。「コルデル」そのものも、やがて映画、その後にやってくるテレビなどの安手の娯楽の浸透に抗せず自然に衰退する。文化は流転し、人の世の諸相に沿って生々流転する。人の営みに停滞がないからこそ消える芸がある。惜しんでも仕方がないことなのだ。
広大なブラジルの大地には、こうした時代の役割を終えた民衆芸術の成果が各所に遺っているのではないか。そして、それらの果実は落下し、ゆっくりと虫に食われて消えて行く運命にあるのだろう。ブラジル北東部生まれ育ちの民衆音楽バイヨンなども、すでに時代の役割を終えたように、「コルデル」も民衆の嗜好から見放された。「コルデル」は縁日での売り声、ギターでの客寄せ歌まで含んで完結していた民衆芸だと思う。今はその断片としての木版画から想像するしかないようだが。(メキシコ市の国立版画美術館で)
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● 作品は、「黒いドラゴン」
作者は、「A.F」の署名だけで無名の画工
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* 初掲載紙 : 『ラティーナ』2001年10月号 * 後日談 : 本展は市内の中心部の版画専門の美術館で開かれた。そして、出品、作品はすべてメキシコ市在住のブラジル大使館が所蔵するものであった。そのクレジットを読んで、「あぁ、大使館の機能のひとつが文化交流であるのだから、こうした作品がいつでも展覧会に貸し出しできるように常備しておくのは良いことだな」と思った。日本には、版画といえばフランス印象派に多大な影響を与えた「浮世絵」がある。北斎や写楽、といった貴重な作品はさておき、明治以後、現代にいたる日本木版画の優品を主要な大使館に常備しておくのは、大きな文化交流になるだろうと思った。映画やビデオを貸し出ししている大使館もあるが、こうした美術品も常備しておくことも日本の経済力なら充分可能だろう。大使公邸を豪華にしたり、プールを建設したりするより、はるかに有意義な事業だと思うが。もっとも、現在の汚職まみれ、すっかり制度疲労しているようにみえる外務省にそうした積極的な事業案を机上にあげる余裕はないか? (2001年7月 国立版画美術館) |
フェルナンド・ボテロ(1932〜)といえば「豊満」の美の画家ということに尽きる。南米コロンビアという美術界でいえば辺境から出てきた画家が世界大の大衆的人気を博しているのは、エスプリに富んだ卓抜なユーモア、親密さ、至福に満ちた心地よさだろし、非社会性、民族的記号の希薄さも国境を飛翔させる浮力となった。そんな画家が99年を境いに突然、祖国の深刻な問題と対峙して、血糊を塗り込めた死臭ただよう酸鼻な絵を描きだした、というニュースが当地の新聞に時折り紹介されるようになった。なるほど、記事に併載される「新作」はボテロの親しみ安さに慣れ親しんだファンをして目を背けさす異様な気配があった。その暴力性に富んだ「新作」がはじめて一堂に会する「画業50周年記念」展が今、メキシコで開かれている(3・20〜7・31/サン・イルデフォンソ美術館。以後、マドリッド、サン・ペテルスブルグ、ロッテンダム等各市を縦覧)。
「葬列」「車爆弾」「罪なき々への虐殺」「殺し屋」「コロンビアにおける虐殺」などに月岡芳年に通じる残虐、そして拷問を描く二つの「無題」作。加えて、昨年、同国を襲った大地震に取材した新作を加えれば一過性の仕事ではなく、祖国の現況に心痛める画家の真摯さが伝わる。もっとも、お馴染みのボテロ調の豊満さだけは保たれている。しかし、古今、「死」を課題とすれば、象徴的に示される死体は痩身と相場が決まっているモノだが、ボテロは相変わらず豊満さを表出し、故に尋常でない気配を表出することに成功していると思う。
ボテロの祖国は現在、反政府武装組織・コロンビア革命軍の戦闘活動、政府軍に加え極右派武装組織も加わる。さらに域内最大の麻薬密売組織の暗躍、誘拐事件の多発。2月、現地の日本企業幹部がゲリラに誘拐されたことは読者も周知のことと思う。三つどもえ四つどもえの混乱が続いている。
本展に出品された作品はすべて画家が私蔵するものから成る。巡覧後、ボテロは近作も含め、「国内5つの美術館に分散寄贈する予定」と語っている。さて、くだんの「血みどろ画」の前に立つコロンビア人は、「祖国の負の遺産」として不快さを覚えるか、あるいは克服しなければならない民族的課題として建設的に受け止めるか、寄贈後の行方にも関心が高まる。
| * 初掲載紙 : 『芸術新潮』2001年6月号 * 後日談 :本稿は『芸術新潮』誌への寄稿原文。掲載時には、日本のボテロ観を反映してか、あの豊満美の画家が「残酷画」を、という意外性を特筆する部分を抜き出された。これは掲載欄の「海外ニュース」という字数に制限のあるコーナーでは仕方がないことだがボテロを育てた風土性を抜きにしてはやはり、彼の美の拠りどころは見えてこない。未だ、日本のボテロ観は温和なところに終始していると思う。それは正鵠をえていないボテロ観であることだけは確かなのだ。 |
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◆ ”骸骨”の風刺画家 ポサダ
貫徹した職人芸がメキシコ壁画運動を準備する。はたまたメキシコ革命の鼓吹者
グアダルーペ・ポサダ展
ラテンアメリカの芸術家はアルチザン的な俗気を厭わない。俗気をそのまま芸術に昇華する芸術家も多いし、俗と聖の狭間で綱渡り的な仕事をこなす者、両界二股掛けて稼ぎ且つ、畏敬される恵まれた資質の画家といろいろだ。メキシコ壁画運動の巨匠たち、例えばディエゴ・リベラなどは労力に見合わない端金で壁画制作を請け負いつつ、資産家からの依頼仕事もせっせとこなしていた。公共建造物の巨大な白壁を「祖国愛」を表出する仕事を継続させつつ、一方でこまめに職人的な練達の筆で稼いでいたのだ。
そんなリベラ晩年の傑作に『日曜日の午後のアラメダ公園における夢』という大作壁画がある。ホテル経営者から請け負った、たぶんかなり見入りの良い仕事だ。リベラはそこにメキシコ史に登場する聖人、革命家、独裁者、悪漢、史家に詩人と悉く描き出そうと企図し、まずまずの成功をおさめた一大群像画である。その中心は、貴婦人の盛装姿の骸骨夫人カタリーナ。その横に少年のディエゴ・リベラ、その少年を庇護するようにリベラ夫人のフリーダ・カーロが成人の女として描かれる。その横に骸骨夫人を配しているわけだが、彼女の腕を取る山高帽姿のいなせな紳士が、本稿の主人公にして稀代の版画職人グアダルーペ・ポサダ。
カラベラ(骸骨)をニッコリ笑ってのテロリズムとして夥しい風刺画をモノにしたアルチザン。リベラ夫妻を除けば、絵師で描かれるのはポサダのみ。リベラは、そこで真に尊敬に値する画家はポサダ只一人と確言しているようなものだ。壁画運動の良きライバルたちオロスコもシケイロスも存在しない。
ポサダ……メキシコ壁画運動の本流に位置した画家たちに決定的な方向性を与えた印刷所の親方。1852年2月、アグアスカリエンテ市のしがないパン職人の家庭に生まれた。両親は字も書けなければ読むこともできない下層階級の人。貧困とはいえなくとも贅沢の出来ない少年時代、恵まれない庶民の生活を幼い目で見てきたポサダが長じて印刷屋、手間仕事の商業意匠専門の工房で働きはじめ、熟練の画工としての才を磨く。やがて天賦の創造的才能はメキシコ市で新聞や雑誌も出す印刷屋で働きはじめた時、開花する。生涯制作点数15000点以上といわれる。その大半、ほとんどが最初から用途の明白な「商業製品」、しかも廉価な。
ポサダ作品を大別すると二潮流。ひとつは下層階級の哀感を表現した一群の作品、もう一方は当時の独裁者ポルフィリオ・ディアスと、その配下の者たちの腐敗、権力を指弾する政治的風刺画から、メキシコ革命に刺激され、連帯者の自負から生まれた作品群である。このふたつの潮流は淀みなく壁画運動のなかで中心的な表題となってオロスコやリベラ、シケイロスに引き継がれた。
しかし、「商品」として消費されたポサダ作品の多くが散逸し消滅した。現在残るオリジナル版画は僅かだ。これを集めて展覧するのが今、ディエゴ・リベラ壁画館で開かれている「ポサダ展」(8月末日まで)。この会場こそ、リベラの大作『日曜日の午後のアラメダ公園における夢』を収蔵するためにアラメダ公園の一角に設けられた公共施設だ。
ポサダが美術史のなかで特筆される存在となったのは彼が生み出したキャラクターに集約される。カラベラの存在だ。史上の人間から現在に生きる者、貴賓、名もなき庶民も含めて皆、皮と肉を殺ぎ落とし骸骨によって批評した。西欧の「死の舞踏」に通じるものだが、ポサダはメキシコの地脈から滋養を獲てものにしたものだ。アステカ、いやメキシコ高原地帯に花咲いた先住民文明の死生観、あるいは宇宙観の大衆レベルの再興であったといえようか。生と死が表裏一体となって生きとし生きるモノを形成するという二元論的宇宙観は、けっしてメキシコ特有の表現形式ではなく世界言語として通用するものだった。ポサダにはアステカ神話なり神像への知識があり、たとえば身体を人間の骨格、顔を骸骨の仮面をつけた黄泉の国の神ミクトランテクゥトリあたりがが絶えず念頭にあったに違いない。おそらく、ポサダは無意識であろうが、アステカ神話を現代的解釈で蘇生させた最初の画家であったはずだ。
しかし、そうしたポサダ論では、今日のメキシコ大衆に親しく横たわっているカラベラ人気の継続性を語ることにはならない。たぶん、彼の天賦の職人技は紙玩具に認められるのではないか。スペイン語で双六のことをオカ(oca)というが、メキシコの双六といえば大変、民族色豊かで、賽を投げ駒を進めるに従って伝統を学ぶ仕掛けになっている。この原画を描いたのもポサダだ。いや、同種の双六は他の職人たちも無数に描いたに違いないが今日、典型として定着したオカはポサダ原画の忠実な再現か、そのバリエーションだ。もうひとつロッテリアという遊びがある。これもメキシコ臭プンプンの絵を描き混んだ絵札と、食生活になくてはならないフリフォーレス、そう豆を用いて遊ぶもので、その原画もポサダなのだ。
今回、大小約120点のポサダの手仕事に親しく触れ、本誌に即していうのだが、メキシコ大衆歌謡の大きな流れコリードの一枚物楽譜のカットとして描かれたものが多くあることをあらためて認識した。そのコリードの多くは、革命期に生まれた「サパタ賛歌」であり、革命初期の指導者マデロに捧げられたものだ。
現在の日曜の午後のアラメダ公園には、チェス愛好家と、しばしの休日を楽しむ貧しい地方出身者たちの若者たちが愛を語らう場所だ。その若者たちの大半は先住民共同体から出稼ぎにやってきた者が多い。そんな若者の夢は、歴史とは無関係に近い将来の現実的な夢に満たされているだろう。ポサダはそんな庶民の現実的な夢に連帯しようとした画工だ。富裕な家から出た知的インテリゲンチャのリベラは、ポサダほどには所詮、虫瞰図式的に庶民を捉えることはできなかった。
● 「カトリーナ」 (ポサダが造語した言葉。男性名詞の伊達者、洒落者を意味するカトリンに対応する女性名詞として使った)![]() |
* 初出掲載紙 : 『ラティーナ』2001年8月号 |
◆ 雨に濡れた舗道の夢想
過日、サラ・バラスの『狂女ファナ』の舞台を見終わった後、石畳の舗道を鈍色に染める雨に打たれながら夢想した。
もし、このメキシコで「ファナ」のような劇的なな生涯を送った、あるいは余儀なくされた女性を上げるとしたら誰がいるか。著名な女性に良いにきまっているから筆頭に閨秀画家フリーダ・カーロの名をあげる。ラテン文学に詳しい人なら、植民地時代の中南米地域を象徴する詩人としてヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)の修道院の薄暮のなかで過ごしたファナ・イネス・デ・ラ・クルス尼の名をあげるだろう。
ファナもまた「狂女」以上に時代の制約に翻弄され短い生涯を余儀なくされた。が修道着はあまりにも色気がないか。植民地時代のスペイン・カトリシズムと静かな闘争をつづけながら、終いには聖書以外の本を取り上げられ筆記すら禁じら失意のなかで疫病者の看護に当たって自死の道を選ぶ。「狂女」の死から約百年後に植民地に現れた、その名もファナ。
修道女ファナの筆跡は聖域の奥底に秘匿され後世へ遺贈された。詩人、劇作家にして教育家、科学者にして作曲家ですらあったファナ。身を焦がす愛の逸話に欠けているが、内奥の「カルセレーラ(牢獄の歌)」に止揚できるだろう。
そして、もう一人フリーダ・カーロ。マンハッタンでもメキシコ先住民フチタンの民族衣装を身にまとって闊歩したムイ・ムヒカーナ。女学生時代、交通事故で骨盤を打ち抜かれ、「私の処女を奪ったのは鉄棒」と語っていたの愛と創作の生涯。
フリーダなら狂熱のなかの愛を物語れる。舞台には絶えず大きなイーゼルを配して、そこに彼女が繰り返した描いた傷痕だらけの自画像、それも最初、未完成の自画像を配し、終幕で完成しているといった構成。彼女の性愛、交情、そして嫉妬の情はすべて静と動、コントラストを屹立させたバイレで表象する。メキシコ壁画運動の推進者でありフリーダの夫ディエゴ・リベラは巨漢だから、彼に舞ってもらっては蛙のダンスとなってしまうから精ぜいホリゾントで巨大壁画をもくもくと描いて貰おう。フリーダの愛人のひとり彫刻家イサム・ノグチは美男子だったから、これはバイレで交情の場に似合う。ノグチが日系米国人で親近感も湧こうというもの。シュールレアリストのアンドレ・ブルトン、ロシア革命の英雄にして失意の亡命者レオン・トロツキー、壁画運動の推進者シケイロス、フリーダを巡る交友関係、著名人には困らない。
サラ・バラスの「ファナ」は蝶が羽を重ねて舞わなくなるように、激情のあとの沈黙に身を晒して朽ちていく。フリーダは度重なる手術を経て、片足を切断され車椅子を利用することになる。その椅子の上から、「米国帝国主義反対!」と叫んだコムニスタであった。そんなフリーダ、難役に果敢に挑戦するバイラオーラが日本から出てこないかな、と夢想する。少なくとも高村智恵子を舞うよりフラメンコ向きだと思うのだが。智恵子の狂気はやはり振り袖に隠して舞って欲しい。
| * 初出掲載紙 : 『パセオ・フラメンコ』2001年8月号 * 後日談 : 日本のフラメンコ・ブームは昨今、下火と聞くが、それでもスペインに次いでフラメンコ人口の多い、異様な国であることは間違いないだろう。故に、それを象徴するように大判のカラーグラビア満載の月刊誌『パセオ・フラメンコ』などという雑誌が堅実に売れているのである。この雑誌との関わりは、畏友・佐藤由美氏が編集長になったからで、同氏が退職した現在、ほとんど付き合いがなくなっている。佐藤編集長時代はほんとうに充実した仕事をさせてもらったものだ。今回のエッセイは、「ラテン・アート」というカテゴリーからやや離れるかも知れないが、フリーダ・カーロ話題ということで強引に掲載させて戴く。フリーダについては毎年、なにがしかの記事を書いている。僕のフリーダへ向ける想いの強さ、と同時に、日本の活字媒体もまた関心が強いということだろう。 |
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たとえば、「笛吹き」と題された絵をみてみよう。
若い笛吹きが奏でる調べに合わせて化石の断片が地上から舞い上がり、後景の塔の壁材として飛翔していく光景。それとも、塔から一枚一枚はぎ取られ、音色に誘われて笛吹きの足元に舞い降りる、とまったく反対の印象も与える不思議な絵だ。笛吹きも朽ちたまま立ち涸れた森から抜け出てきた、不可思議な存在だ。
「ハーモニー」と題された絵。厚い壁で囲まれた青白い部屋で、独り悄然と机上に浮かぶ五線譜に昆虫やら葉などを刺し通し旋律を紡ぐ青年を描く。前後の壁に染みのような女の虚像が描かれ、その女の手は五線譜に延び、青年に啓示を与えているような、それと引き替えに青年の精気を奪っているような……青年の頬は痩け、死相さえ漂っている。
幻視の女流画家である。
生まれは1908年、スペインはカタルニアの小さな町、その名もアンヘル、「天使の町」である。両親はバスク人であった。生後、暫くして両親とともに北アフリカのモロッコに移り、7歳でマドリッドの学校に入学するまで生活する。幼少期のアフリカ体験が描かれているわけではないが、レメディオスの絵が徹底的に無国籍を志向している事情と何処かで通底するものがあるように思う。
レメディオスの代表作をもう一点、紹介しておこう。「太陽の音楽」。草が生えた毛布のようなものを裸体に纏った若い女。たぶん、ミューズ。そして、顔はたぶん自画像。化石の森のような褐色の地に射し込んで来る光の束を大きな弦楽器と見立て、その光の束から自在に音色を弾きだす。光輪となって地上に浸透する小さな円のなかだけ、花々が繁る。 そうレメディオスは繰り返し「音楽」を象徴化している。その「音楽」は無論、交響楽ではありえず、独奏曲、しかも自己慰安のための旋律に満ちたものだ。私生活を反映、象徴するものでもあろう。さまざまな解釈が成り立つが、それは余りにも極私的であって、批評を頑なに拒んでいるように思う。レメディオスが描く自画像はそんなふうに表象される。
グリムやアンデルセン、あるいはウォルト・ディズニーのアニメに登場してくるようなメルヘン的な楽しさと薄気味の悪さが同居、というより錯綜する。独特のユーモアと、毒気の含んだ風刺性。ネーデルランドのボッシュの影響もあれば、シュールレアリストのエルンストの陰もみられる。童画そのものとしか思えない絵もある。童話には、よく残忍さが隠されているというが、その二律離反するものがレメディオスのなかに共存する。
作品はいずれもが細心の筆使いで丹念に描かれている。衝動はなく、緻密に計算された絵なのだ。薄く溶かした絵の具を幾度も塗り重ねて微妙な肌触りを作っている。その意味ではレメディオスとほぼ同世代の画家フリーダ・カーロとは対極的な位置にある。フリーダの絵は、幾ら非日常の世界を描いても、そこには地上に根を下ろした生身の女の熱き体温が感じられるものだが、レメディオスの絵にはひんやりとした人工的な冷気がこぼれ落ちそうな気配しかない。この怜悧さはどこかから来るのか?
レメディオスは1942年以来、メキシコに定住することになる。その2年前に、彼女の作品はシュールレアリスト絵画展の出品作としてメキシコ市に渡り、二度目の夫シュールレアリストの詩人ベンジャミン・ペレと新生活を開始する。その42年には、メキシコ文部省が「絵画彫刻学校」を設立し、夫ペレはここの教授に迎え入れられた。同僚にはディエゴ・リベラやその妻フリーダがいた。
レメディオスは絵を生活の足しにするために売る必要はなかった。だから、心ゆくまで絵を愛撫していられたし、幻想に浸ってもいられた。彼女の代表作はもとより大半の作品がメキシコで描かれ、故にカタルニアではなくメキシコの画家として認知されているが、この地のコントラストの激しい光と陰に育まれはしなかった。明度はせいぜい絵筆の先を照らすものがあれば良かった。
レメディオスの本格的な展覧会は1982年のことである。それまで、ほんの少数の者しかその潤沢な個性的な美の世界を知らなかった。幻視を紡いだ画家の日常とはどのようなものであったのか? 画家は多くを語っていない。1963年、55歳で死去。早すぎる死だと思う。
現在、レメディオスの主要作品はメキシコ近代美術館に収蔵されている。因みに、同美術館にはフリーダの代表作、リベラ、シケイロス、オロスコなど壁画運動を担った巨匠たちの代表的なタブローが常設展示されている。その一角に、昨秋からレメィデオスに捧げられたコーナーが設けられた。
「私は語りたくない。作品こそが重要だ」とはレメディオスの生前の弁。しかし、その幻想に魅せられた者は、その意味性を自己流に解釈したくなるものだ。そうした作業を通じて、孤高の画家も否応なく美術史に定着させられてゆく。
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● レメディオス・バロの「笛吹き」
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◆ リトアニアからブラジルへ、故郷喪失者の人間の実在性を凝視する視線
「ブラジルの表現主義者」 ラサル・シーガル展
もう20年も前になるかと思うが、温かな掌の手触りをもつ『リトアニアへの旅の追想』という映像詩をみた。今日では、米国インディペンデント映画の不朽の名作といわれているようだが。ナチスに追われ米国に亡命したリトアニア生まれのユダヤ人ジョナス・メカスがニューヨークでの日常を16ミリ・フィルム(8ミリだったかも?)で撮りはじめ、27年後、「亡命した人間」が故郷の村を訪ねる思い出の旅、そして強制収容所に収監されていた絶望的な日々を追想する部分と三つの独白的な映像を積み重ねた物静かだが20世紀の人間世界の愚かさも抉るような刃先のきらめきをもった作品だった。
ラサル・シーガルというリトアニアの首都ヴィリニュスのユダヤ人コロニーに生まれ、ドイツ表現主義の影響下から出発し、ブラジルに永住の地を見出した画家の回顧展が始まった。142点の作品を通覧していくうちに、メカスの映像がひたひたと広がった。シーガルは、ドイツ表現主義の画家たちが絶えず人間を凝視しつづけたように、人間を酷烈な視線で観た、観ようと前傾姿勢を保とうとした画家だ。内質的にけっして政治的な作家ではなかったと思うが、彼が生きた時代と、そして出自、さらにいえば小国リトアニアの運命が雄弁な作家にしたように思う。
メカスの映像詩はいまだベルリン市街を分かつ「壁」が屹立している時代に作品化された。「壁」が何時、崩壊するのか誰も分からない状況を暗黙の了解事項として、その映像は見る者の肺腑に染み込んで来たのだった。シーガルの絵に具体的な表象があるわけではないがロシア革命、ナチスの台頭、大戦、ソ連邦によるリトアニア併呑といった20世紀東欧史が反映している。歴史の痕跡、傷痕を留めているという言い方もできるだろうか。
シーガルとブラジルとの出会いは1912年、画家21歳の時だ。ブラジルに住む兄弟を訪ねたのが最初だ。そして、1924年以来、サンパウロに居を定めブラジル人画家として後半生を過ごすことになる。
第一次大戦における敗戦、廃墟、失意と混乱のなかから出てきたドイツ表現主義は、ナチの台頭によって政治的に窒息させられる短くも豊潤な実験性と鋭敏な時代感覚を合わせ持った大きな潮流であった。そこで行われた社会批評と美術との融合の試みは現在まで大きな影響を与えている。シーガルは、その運動のなかで単なる写実では飽きたらず人間存在の実在を極めようする探求の画家となる。それは、第一次大戦の悲惨を兵士として体験したオットー・デックスら先導者たちのドイツ表現主義の忠実な使徒になることであった。シーガルの清新な感受性は先達たちの妥協なき戦いの前衛に近づく、デックスはシーガルの師だが、同時にキルヒナーの神経を逆撫でるような刺激的な色彩で描き出された人物像にも抗しがたく引きつけられた画家であったと、初期作品がそう語っている。しかし、シーガルは先輩たちより更に惨酷な現代史とともに歩むことを強制される。祖国リトアニアはモスクワの配下となって独立を失い、故郷喪失者となる。
難民・亡命者を満載した船内光景、虐殺の大画面、親密感に富んだユダヤの老人像、愛する妻の肖像にしも何処か陰鬱である。色彩を意志的に抑制した寒々としたタブローがつづく。しかし、そんななかにあって時折り暖色が跳ね、絵筆の喜びを率直に反映した作品が、雲間の射光のように慰安の境地に誘う作品がある。それらはいずれもブラジルを、ブラジルの太陽を浴びる民衆を描いた作品だ。それらの絵は、ブラジル生活が始まってから描かれたものではなく、欧州からの旅で描かれた時代から始まっていて、本質的に色彩を抑制しつづけてきた画家の履歴のなかにあって、うまい表現とはいえないが“砂漠のオアシス”のようなものだ。ブラジルは、北国生まれの故郷喪失者に慰安と、精神に良きバランスを与えていたのだ。そんな第二の故郷に恩返しをすべく、彼はブラジルにおいて、植民地美術からの完全なる脱却を願って絵画だけでなく、文字の書き手として多くの発言を繰り返して行く。
メカスが米国の作家として認知されているように、シーガルもブラジルの画家である。そして、メカスより時代の輻射熱を直截に受け止めて真摯に創造活動に邁進した表現者であると思う。そんな画家の業績が日本ではまったく黙殺されている。手元の日本語によるドイツ表現主義関係のいくつかの文献にあたったがシーガルの名はない。いや、ブラジルを除くスペイン語圏アメリカでも無名であった。いま、その再評価が米大陸で本格的にはじまった。
1991年、シーガルとメカスの祖国リトアニアは市民の血を犠牲にしてモスクワの意思を挫き、独立を勝ち取った。シーガルの死後、34年を経てのことだった。
| * 後日談 : ラサル・シーガル展は2002年3月から6月、メキシコ市内の国立近代美術館で行なわれた後、7月からアルゼンチンのブエノス・アイレスのラテンアメリカ美術館に巡回した。本稿は、2002年5月号の『芸術新潮』の「WORLD」欄に書いた記事に対して、すこぶるつきで飽き足らず、全面改稿して、『ラティーナ』誌のアート欄に寄稿した文章に、今回またあらたに手を加えたのが掲載の文章。まぁ、これでも書き足りないぐらいだが、いまだブラジルの地を知らずリトアニアを訪れる機会も巡ってくるかな、という現在、あまり勇み足もしたくないとの思いもあるので、まずは紹介の一助にということで……。 |
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