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Ensayo ラテンなエッセイ
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★ お仕事で、ラテン諸国を飛びまわっているMinitaさんのエッセイ

ラテンの地 百聞は一見にしかず

「まえがき」 「Common Senseは存在しない!?」 「知られざるパナマ事情 I」 「知られざるパナマ事情II」

◆ 自己紹介 

Gitana (ヒターナ)生活。
今どこにいるの?と聞かれるのが常。
 思いがけず「ラテン」に関するエッセイを、僭越ながら担当させて頂くことになりましたミニータ(Minita)・社会人5年目です。業務上、ラテン各国をジブシーのように転々としており、気がついたらすっかりラテン文化や人々に魅了されてしまい、この地を離れることがなかなかできなくなって参りました。日本を離れた当初は、遠く離れたラテンで新規プロジェクトの立ち上げというミッションが第一にあり、仕事、仕事の日々でした。しかしながらラテン地域において業務を長期間経験した現在、相変わらず勉強の日々ではありますが、それにも増して、日々共に働いてきたラテンの血が流れる同僚を通して発見する「ラテン」が、この地域で働き続けている何よりの楽しみと動機となっていました。この場をお借りして、今まで見聞きしてきたことを皆様にお伝えできる機会を得られて光栄です。
登場人物も他国籍軍
 さて、今後、エッセイでご紹介していく話の背景をざっとご紹介させて頂きたいと思います。ラテン地域への業務展開は東京より私を含め4名で出発致しました。以後、北はアメリカから南はアルゼンチン、西は南アフリカ、東はインドと雪ダルマ式に全メンバーを合わせ200人程に膨れ上がり、約15カ国程の多国籍軍を形成しています。ラテンの拠点といわれるマイアミを出発点とし、パナマ・コロンビアを経て、現在はマイアミ、アルゼンチン、ベネズエラと拠点としております。今後は他ラテン国への展開が予定されていますが、今まで業務を通して訪れてきた国々は勿論、休暇を利用して旅行した国を含め、ラテン各国情報、文化、多様な国民性など、様々な観点からのテーマでお伝えしていきたいと思います。

◆ まえがき  

●各国多色多彩 
 今まで訪れてきた中南米カリブ諸国の国や街には、それぞれイメージを形容するのにふさわしい言葉がある。それは、その土地を訪れて感じたことはもちろん、その国に生まれた人々がその色を更に濃くしたといっていい。今後、記述していく内容は、すべて私個人の感想であるため、絶対、ということではなく、経験上の結果とご認識頂きたい。
 それぞれの文化を知れば知るほど驚いたことは、同じ大陸に住みながら、同じスペイン語を話しながら、その文化や習慣、国民性は、驚くほど異なるということ。これは、ヨーロッパやアジアの陸続きの国々がそれぞれ言語や国民性が異なることを思えば当然と言えば当然だが、改めてその違いを目の当たりにして不思議な気がした。ヨーロッパやアジアは話す言語自体が多種多様だが、この大陸はポルトガル語のブラジルを除いて、(※)全ての中南米・南米諸国はスペイン語。そしてスペインに制覇・統治された共通の歴史を持つ国も多い。
 ところがおかしなことに、中南米・南米出身の同僚ほとんどが、言語と国民性の相違を強調したがるのである。さて、どのように違うのだろうか。あくまでも私の受けた印象で、一言で説明すると、というレベルの表現である。
※ ガイアナ3国(フランス語)を除く

フロリダ州マイアミ
アメリカの顔をしたラテンのリゾート地。70%以上をキューバ人が占める、英語が話せない住民も多いヒスパニック社会。スペイン語を話す人種が憧れる地であり、多くのラテン人が別荘や家を保有している。(個人的にマイアミは米国ではなくラテン地域に属するものと思っている。)
メキシコ
伝統を重んじ、家族愛中心の男性社会。その中でも「母」の存在は格別。教育等アメリカの影響力が強い。愛国精神旺盛の国民。
プエルトリコ
アメリカとラテンの中間国。(実際にはアメリカ合衆国の一部である。)公用語で英語も使用され、且つカリブ海に位置し、サルサ等の音楽が根付いていることから、粋な若者が多く、自他共にそうした認識がされている。
ジャマイカ
言わずと知れたレゲエとラムの国。一方で国が貧しく観光地の贅沢さと貧困の差が激しく際立つ。
コスタリカ
自然・生物愛好家に愛され、環境保護の教育が進んだ国。欧米からの観光客が多いため、洗練された観光名所が多い。
パナマ 
自然環境はコスタリカと似ているが、観光化されていないため対照的に手つかずの自然や未開発な素朴な土地が占める。総人口が少ないため、世間がとても狭い。
コロンビア
ヨーロッパ調の街。人が優しく穏やか。誘拐とドラッグの悪名さえなければ素敵な国。
ベネズエラ
ビューティーコンシャスで美人産地の南米色が濃い山と海に恵まれた園。カラカスは中南米の田舎都市。
ペルー
時代が止まった生活を営む民族が、神々と住む国。不思議が転がっている。
アルゼンチン
ラテンの中でも最も生活レベルが高いと自負する国民が多い。何事も情熱的で、サッカーへの情熱はブラジルと勝るとも劣らない。男性人の冗談は、耳を疑う内容が多い。
ブラジル
サンバとボサノバに代表される音楽、色彩感覚抜群のアート、サッカーと熱い物が多く、活気がある。多民族が共存するインターナショナルな国。

●各国人十人十色
 また、多国籍な仲間と働けば働くほど、その国民性の相違が浮き彫りになる。勿論、それぞれの個性もあるので、一概的に国民性の特徴を決めつけることはできない。(実際には、プロジェクト内では冗談以外での「〜人だから」という表現は禁句である。)しかしながら、特にプロジェクト内でつきあいが多い国民についての印象を、人から見聞きした内容も含め記述してみたい。(尚、ここで留意して頂きたいのは、登場人物はあくまでも業務を通して出会った人々であり、一部の社会を構成している層の人間である、ということである。)

日本人
夜中まで働くHard Workers。家族に対するプライオリティが低いと一般的に思われがち。アジア人の中でも、格別に「丁寧・礼儀正しい」「優しい」という印象を持たれている。
アメリカ人
ラテン男性人に比べると、ラテン女性にはアメリカ人男性は「真面目すぎて面白くない」と言われている。しかしながら、仕事に対する責任感と、合理的アプローチは別格。
(一般的に、南北アメリカの仕事の質はメキシコを除いて格段に差が見られる。)
アルゼンチン人
南米の中でも、イタリア系が最も多く、街並みもヨーロッパ調の色を濃く残しているため、南米のヨーロッパと自負している。ラテン他国からは鼻が高いと最も嫌われ、「アルゼンチン人」が「嫌な奴」の代名詞として使われているほど。内面は情熱的だが一見表面に出さないが、アルゼンチン人で固まると大変な騒ぎになりやすい。冗談好きで内容は強烈。女性は、一見、ツンとした印象を与えるが、一度心を開くととても面倒見がよい。話好きが多い。朝が遅く、夜が長い国民であるため、日本人の次に残業が多くみられる。
ブラジル人
女性の知り合いがあまりいないために男性の印象しか説明ができないが、男性はとにかくアルゼンチン人に負けじと情熱的だが、ややおとなしめ。(サッカーファンは全く別の話になる)。マイペースタイプの反面、繊細なロマンチックタイプも多い。
コロンビア人
ラテン国の中でも、コロンビア女性は人気が一番高い。優しく気遣いがあることにかけては秀でている。また、美人も多いが、一方、男性はパッとしないことで有名。しかしながら、一般的にコロンビア人は穏やかで、物腰柔らかである。
メキシコ人
真面目で温厚、日本人と最も合うと評判。米国移民も多いが、一方で伝統を重んじ、メキシコへの忠誠心が強い。社会的には家庭に入る女性が多く、家父長制度の傾向が強く見られる。アメリカを意識した教育やビジネスに強く影響されている。
ベネズエラ人
首都のカラカスでさえ、国際化がなされていないため、世界を知らない、人が良い、ラテンの田舎の人々、という印象を与える。初めは内気だが、一度仲良くなると人懐っこく、気が良い。女性は容貌には多大な労力を費やし、他国と比べてなかでも女性であることを強調する服装を好む。
パナマ人
白人社会がほんの一握りであり、その中で生活するパナマ人の裕福層は、その世界だけで生活をしているために、大変社会と視点が狭い。一方、裕福なことが当然と思う傾向があり。全般的に、「働く」という概念にあまり縁がないように見受けられる。

 以上、今後のエッセイの中身を構成してくれる国々と国民の紹介を簡略にさせて頂きました。次項からは、エピソードに基づく観察レポートにしたいと思っております。日常の会話を通しての報告内容となりますので、あまり高尚なことをお伝えできないかもしれませんが、こちらの雰囲気が少しでも遠く離れた日本の皆様にお伝えできればいいなと強く願っております。掲載内容に関するリクエスト・ご質問等、歓迎させて頂きますので、是非、今後ともご購読宜しくお願いいたします。

◆ 第一話  Common Sense (常識) は存在しない !?   

●常識という概念は存在しない?
 「特にラテン地域では、"常識"という言葉は存在しない、という前提で業務に取り組んだほうがいいよ。」プロジェクトに参画して間もない頃、ホエル・ヘルナンデスというメキシコの販売会社から参加しているセールスマネージャーにそう教えられたことがある。ホエルは大変頭の回転が速く、人をまとめていく才能に長けているため、多くのことを相談しながら共に問題の火消しに徹してきた。その間、何度この台詞を聞かされただろうか。同様に、プロジェクト立ち上げ時からやはり東京から出張者としてほぼ365日行動を共にしてきたミッチの口からも、やはり同じ台詞を聞いてきた。「本当に"常識"というものが存在しないよねぇ。」 ラテンのプロジェクトメンバーに常識がない、と批判している訳では決してない。単に、異なる文化を持つ国籍が混在する環境においては、大前提として予想・期待されている結果に対し、行動・対応に大方の「ずれ」が生じた時に、この台詞が適用される訳なのである。そして、実体験に基づきながら、やがてこの説に納得することになる。
 ラテンの人々とは、プロジェクトの立ち上げ業務を通じて知り合うことができたわけだが、大枠のメンバー構成は次の通り。東京本社から出張、または、販売会社に赴任している日本人スタッフ、中米・南米各国の販売会社のラテン現地社員、プロジェクトのために起用している外部コンサルタント会社。そして、北米・南米オフィスからスタッフが派遣されてきている。要するに、国籍も異なるメンバーであるが、同時に2つの企業文化が混合したコラボレーションの世界でもあるといえる。
 ということで、異なる国文化だけに留まらず、異なる企業文化を通して"自分の価値観を「常識」とした尺度からスタートするべきではない"ということを学ぶ。以下、こうした考えを持つに至るきっかけとなる数多くのエピソードの中からいくつか紹介したい。
(* 以下、プロジェクトメンバーの名前は呼称や仮称にて掲載)

●時間の概念?
 この話はラテン全般に共通しているが、経験上、特にアルゼンチン出身の知り合いに当てはまる。「ラテン系の人は時間にルーズ」と噂では耳にしてきた。実際に、日本で分刻みの電車に乗っていた我々は、彼らのラテンタイムによる時間配分パターンを知る必要があった。仕事に限らず行動を共にする為には、その行動パターンを認識しない限り、時間に正確な人ほどストレスを溜めてしまうからだ。打ち合わせレベルの会議においては、ほぼ定刻に始まることはない。まず会議室に着くとコーヒーを取りに行き、カフェテリアで知り合いと立ち話を始め、会議室に戻ることが遅れる。よって、何人かに一人は、定刻に席に着いていると「しっかりしている」という印象を持たれる。約束の時間に会議を始める、なんていうことは当たり前のことであるが、周囲の環境がラテン時間だと、たまに定刻に始められると感動に近いものすら覚えてしまうのだからどうしようもない。スタート時刻が遅れたため、会議時間も延びるけれども、ランチの時間を減らしてまで会議時間の遅れをMakeUpしよう等という発想が持てる人は、日本企業に勤めた経験がある人くらいだろう。
 遊びに行くときも同じだ。アルゼンチンの友達と遊びに行くときは、大抵約束した時間は「めやす」に過ぎず、その1時間後くらいに「連絡」が来ると思ったほうが無難。もちろん個人差があるが、少なくとも私の知るアルゼンチン人のほとんどが「約束した時間」に「約束した場所」に現れたことがない。ある夜、パナマ滞在がほぼ終わりに近づき、残ったメンバーで打ち上げを兼ねて踊りに行こうという話になった。月末の会計締めを担当していたアルゼンチン人のアンドレアと「11時にホテルのロビーでね。」と約束をした。メキシコ人のマティータとマリアーノは先にクラブへ行っていることになり、アメリカ人のショーンが彼女を連れてホテルのロビーで合流することになった。きっと誰もいないだろうと思いながら、11時頃にミッチとロビーへ降りると、やはり誰も来ていない。どうせ電話をくれるだろうと思い部屋に戻ると、20分ほどしてショーンと彼女が来た。それから待つこと20分。約束の11時を40分ほど過ぎたあたりで、アンドレアから連絡が入った。「もうすぐ会社を出るから、もし待てなければ先に行っていて」、ということだった。別に急いでいなかったのでみんなで話をしながら待つと、12時くらいにアンドレアを含むアルゼンチンのみんなが戻ってきた。すると、「私、シャワーを浴びたりしたいから、先に出かけて」とアンドレア。結局、先発隊と後発隊に分かれ、そのさらに1時間後くらいに全員で合流した。
 これはほんの一例に過ぎず、こうしたことが日常茶飯事で起こる。

●夜中のパーティー!
 去年のシドニーオリンピックの時期に、目元がアントニオ・バンデラス似のアルゼンチン人・ハビちゃん宅の誕生日パーティーへ呼ばれた。6歳になる彼の長男ナチョを祝うために、プロジェクトメンバーが約20名程度集まる予定だった。大体において、パーティーは予定時間より1時間程遅れて皆が揃い始める。なので、ちょうど夜にブラジル対カメルーンのサッカー中継(結果:ブラジルの敗退)をしていたこともあり、アメリカ人のショーンと一緒に私の家でゲーム観戦をしてから10時頃に訪問した。1時間遅らせて行ったにも関わらず、誰もまだ来ておらず、ハビちゃん宅でも引き続きオリンピック観戦をしてみんなの到着を待つ。10時半頃になるとやっと人が集まり始め、11時頃パーティーが始まった。
 始めの1時間は飲食が中心だったが、夜中の12時を過ぎたあたりから、カラオケが得意なブラジル人のギドーが歌い始めると、アルコールが入り良い気分になり始めたアルゼンチン人が音楽のボリュームをさらに上げて大声で歌い始めた。ハビの家はマイアミビーチの北部に位置する海辺の高層マンションの一室だったので、「こんな夜中に近所迷惑じゃないかな…?」と心配になり、ショーンと顔を見合わせる。熱気で暑い部屋に風を入れるため、誰かが窓を開けてさらに音楽が外に漏れる。調子に乗り始めた皆の衆は、音楽があるのに歌だけで終わる筈がなく、当然踊り始める。夜中の1時頃には既にクラブの一室かのごとく、踊る歌うのテンヤワンヤ、しまいにはリンボーダンスを始める。下階の住人はさぞかし迷惑だろう、と心配し続けていると、案の定、セキュリティの人がドアをドンドンと叩き、注意を3回も受けることになる。
 と、ここまではどのパーティーでもありそうな話だが、ここでアメリカ人のショーンや日本人の自分にはどうしても理解ができなかったのは、
@主役6歳のナチョを含め10歳以下の子供達全員が、この時間まで一緒に遊んでいたこと
Aアルゼンチンより遥々、孫の誕生日を祝いにやってきていたハビの父親も、セキュリティガードの注意を受けて憤慨していたハビを制するというよりは、彼以上に憤慨していた
B誰一人として「近所迷惑」という概念を持ち合わせず、飛び跳ねるわ音楽のボリュームを上げて窓を開け放すなどの行為を4度ほど繰り返していた、等々。そして、パーティーに邪魔が入ったことに対し、アメリカは冷たい、ラテンではこれが普通なのに…。と彼らは不満げに漏らしていた。

●労働条件・時間はどのように評価されるべき?
 さて、ところ変わって、業務絡みの少々堅苦しいトピック。コンサルタントメンバーの大半が長期出張ベースの労働形態でプロジェクト参画となったため、休暇や労働条件などの基準を設定する「Working Policy(労働条件)」の交渉時の話。
 どのくらいの頻度でメンバーを自国に帰すか、国際電話は月にどれくらい許容できるか、等、費用負担についての会議において、人事権や金銭面で権力を持つパートナーと呼ばれるマネージャーが、「Home−leave」(里帰り休暇)に、「2日分の平日休暇の付加」「ビジネスクラス(飛行機)」「毎月2回」という条件を堂々と主張してきた。(長期出張で家から離れて業務を遂行する場合、週末や休暇を設けて里帰りをすることがコンサルタントを起用する際には常識となっている。)日本人の感覚からすると、出張であるからには、観光ビザが失効となるタイミングに合わせて帰国すればいいだろう、といった感じだろう。日本人には多少のギャップを感じさせる感覚のずれが生じたわけだが、この話に折り合いをつけるのはかなりの時間を要した。挙句の果てに「アジアの人々にはわからないかもしれないが、我々ラテン人のカルチャーは家族がとても大切で、頻繁に会うことが本当に大切なのです。」と文化の相違を懸命に強調されてしまう。また、労働時間の話をすると、「成果」主義であるコンサルタントの世界においては、日本のように「9時から5時まで」のタイムカードで労働時間を管理することはむしろ意味がない。よって、業務時間が個人尊重により減少することが業務に影響を与える、という感覚は存在しない。会社にいた時間の長さではなく、決められた期限の中でアウトプットを出すことが重要視されるからだ。しかしながら、これらは業務契約上の「大前提」のレベルであり、この条件に対して更に高品質なサービスを受けることができる、という話では決してない。
 ここで浮き彫りになったのは、いわゆる労働条件に対する「常識」の相違だ。我々アジア人にとっても、個人差を考慮しても当然家族と時間を過ごすことが大切であることに変わりがない。しかし残念ながら、ラテン人が家族との絆を常日頃から会社を含む生活面においても考慮することが当然であるのに対し、日本人はそうした習慣があまりないため、表面的に優先度が低いと見られる。提示された条件を、良しも悪しも現状と黙って受け入れる傾向があることは否めない。出産間もない赤ちゃんと離れて長期出張、という我社の社員のケースをよく耳にするくらいなので、仕事によって家族との絆を犠牲にしがちと言われても無理がないのだろう。日頃、業務と時間に追われがちな生活を送る者には忘れがちな、人間的な温かい文化が未だ息づいており、この点から学ぶことは多い。しかしその反面、彼らはそこを強調するあまり、業務上のパフォーマンスへ与える影響もまた大きい。労働時間自体、アジア人のそれに比べて圧倒的に少ない。ところが、その分業務の効率が良く、成果の質を期待できるか、というとそうでもない。Home-Leaveから戻る度に、職場の同僚にお土産を渡しながら話をして挨拶をして回るため、30分程時間は過ぎていく。夕食よりも大切なランチ時間は、大抵、所定時間より30分ほど延長される。その結果、時間が足りなくなれば、期限を先延ばしすることが一番の解決策、とする傾向が強い。(勿論、上司が日本人の場合は、そうは問屋が卸さないが…。)

 と、極端な例を紹介してきたが、このように、家族中心の文化を形に表し、人生を楽しむことに基づいた個人尊重主義を当たり前とする彼らから発せられる言動には、時々、驚かされ、同時に考えさせられることがしばしばなのであった。

(*上記例は、あくまでも全般的にみられる傾向の紹介で勿論個人差は生じますので、常に全ラテン人を指しているわけではありません。繰り返しとなりますが、この点をご承知下さい。)

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◆ 第ニ話  知られざるパナマ事情 I  

●平和で狭いパナマ人社会
 
「パナマ」と聞いて、誰もがまず連想するのは大体「パナマ運河」だろう。私自身、実際に現地へ足を踏み入れる以前に持っていた予備知識は、 雑誌National Geographic の「パナマ運河返還」特集の記事で読んだ内容だけであった。1999年12月31日に米国からパナマへ運河が完全返還され、治安が悪化した、という内容だ。多くのアメリカ人がパナマを離れたため経済不況を招いてことが理由だ。雑誌に掲載された写真のパナマシティは、高層ビルなどが並ぶ都会的印象だったが、実際は1日で街全体を十分把握できてしまう程の小さい街だった。パナマ市内の高層マンションから街を見渡すと、ほぼ街の全体像が見えてしまう大きさである。「15分程車を走らせると、街の終わりに着いちゃうよ。」とパナマ駐在員から聞いていた通りだったのである。
  北海道よりも小さな面積には、280万人強の国民しかいない。首都パナマシティにはわずか70万人程度しかいないため、その社会は大変狭い。どの程度狭いかというと、新しくオープンした話題のレストランやダンスクラブへ行くと、大体において同じ顔ぶれしか見かけない。ローカル紙を読むと、常時、知った顔の友人や隣人の記事が掲載されている。買い物や食事へ出かけると、かなりの高確立で知り合いに出くわす。現地販売会社でセールスマネージャーを務めるホルヘは、テニスの全国大会で優勝経験を持つ。「次はゴルフで優勝するよ。パナマは人口も少ないし競争率が低いから。」といった具合である。ちなみに彼は、サーフィンの全国大会で優勝経験のある友達も持つ。基本的に、練習ができる環境にあれば(お金があれば)、圧倒的に競争率の低いパナマの全国大会で優勝を狙うことは夢ではないようである。
  しかし、こうして小社会で平和そうな国といえども、その国を簡潔に表現せよ、と言われても困ってしまう。一言で表現できないような多様な顔を持つ「へんてこりん」な国、という印象がどうしても否めないのだ。歴史的には、スペインのピサロのインカ帝国侵略の拠点として利用されたり、アメリカ軍奇襲によるノリエガ撤退という劇的事件をほんの10年ほど前に経験したりと、波乱万丈な背景を持っていたりする。2000年秋から2001年の初夏にかけてパナマで過ごした訳だが、実際に目にしたパナマは、そんな歴史とは縁がなかったように見えた。現パナマは常夏でサルサの音楽がいつでもどこでも聞こえてくるような、一見何の変化にも富まない平和そうな小国に思えた。結局、パナマを後にした今でも、パナマを的確に表現する言葉が見つけられることもなく、不思議がたくさん転がっているなんだか「へんてこりん」な国、として終始してしまった。

● パナマ共和国のいろは
 
さて、日本からは飛行機で約18時間の遥か遠い中南米に位置するこの国の基礎情報をもう少し紹介しておきたい。
  パナマの人種は、スペイン、インディアン、アフリカにルーツを辿る。Mestizo と呼ばれるスペイン人とインディアンの混血が70%近くを占め最も多く、目と髪の色は黒が大半。カリブ海側へ行くと、パナマ運河構築時に連れてこられたアフリカ人の子孫やネイティブインディアンの子孫が大半を占め、白人系のスペイン人子孫は太平洋側に位置するパナマシティから東部のロス・サントス(Los Santos)にかけて多く居住している。アフリカ系は一般に貧しいが、根っからの明るさを持ち合わせた人々が多い。一方、総人口のわずか1割程度を占める白人系子孫は、クラブ制のエリート社会を築いてその立場を確立している。パナマのアジア系住民の割合は、圧倒的に中国人が占める。パナマシティのホテル地域にはコンビニエンスストアや中華レストランを営む中国人が多くみかけられたが、朝早く、夜遅くまで必ず営業していた。日本人は、圧倒的に少なく、恒例で行われる忘年会ではパナマ在住全日本人がひとつのボールルーム(パーティー会場)に集合できる程度の人数である。(パナマ在住の日本人社会については別途記載)
  生活のレベルには格段の差が見られ、貧富の差は明らかである。(その差については、別章にて紹介)日本で言えば三井・三菱のようなモッタ(Motta)ファミリー等の財閥系が、パナマ市場に根強い影響力を保持しており、市場を独占している。市場の小さいパナマにしては、異常な数の銀行の数が湾を臨んだ高層ビル内にオフィスを所有している。トレーダービジネスで成り立つ金融郡である。街はスペイン植民地時代の影響を受けたスペイン調の赤茶屋根の家や古い建物が全体的な基調となっている反面、パナマ運河で長く深く関与してきたアメリカの影響を強く受けた高層ビルやマンションも混在している。発展途上の色濃い地域も多く残り、高層マンションから道路を見渡すと整備されていない地域、物乞いをする人々が日常の風景として見かけられる。カスコ・ビエホ(Casco Viejo)と呼ばれる旧パナマ市街は、パナマ中心街より外れに位置しており、スペイン調の古い街並みが独特の雰囲気を醸し出している。建物の多くはレンガをふんだんに使い、お洒落なつくりのバルコニーに特徴がある。一方、一歩パナマ郊外へ出ると、その豊富な自然環境を楽しむことができる。南北2500km強の長い海岸線を持ち、カリブ海側には有数のダイビングスッポトを持つ。内陸は、多種多様な生態物で知られた隣国コスタリカを凌ぐ、生態物の宝庫である熱帯雨林等の自然に恵まれた環境である。
  治安について話すと、パナマは危ない、危ないと聞いていたが、実際に生活をしてみると他中南米諸国に比べて一番安全のように感じた。銃を持てるマイアミのほうが、よほど犯罪内容が悪質であり、危険度も高そうである。イギリスのリスクコントロール社の調査では、パナマの危険度はレベル4とされている(1〜7のレベル)。参考までの目安だが、レベル6というのは内戦などのある国であり、日本はレベル2とされている。しかしながら、ホテルと空港の往復路は、会社の送迎車の後を銃装備をしたガードマンの車がつくのを毎回見ていると、やはり日本とは違うな、と思ってしまう。

< Episodes >
 
近年、「パナマの仕立て屋」という映画が上映され、日本でもパナマの側面が一部紹介される機会があった。しかし、映画の中に見えるパナマからは、実際にどのような国なのか想像できる人はなかなかいないだろう。実際に、長期滞在していた私にも、なんとも一言では説明しがたいのが正直なところ。よって、パナマでの体験をいくつかエピソードの形で紹介していきたい。パナマのイメージを形成する土台を少なくとも提供できれば、と思う。(* 以下、プロジェクトメンバーの名前は呼称や仮称にて掲載)

●初女性大統領はどんな人?
 
パナマならではであるユニークな話しである。世間を騒がせた話題の女性、といえばMireya Moscoso (ミレイジャ モスコソ)というパナマ初の女性大統領だろう。過去に何度か立候補ののち去年当選し、パナマ中の注目を集めた女性である。注目すべき点というのは、彼女の経歴にある。実はこの女性、既に他界している前大統領Arnulfo Arias (アルヌルソ アリアス)の 2番目の奥方であり、メイドとして前大統領の家庭に身を置いていた。ところが大統領は前妻と離婚してしまい、ミレイジャと再婚する。メイドとして働いていたミレイジャは、当然、国の政治経済に関する知識はおろか、大学も出ていなかった。そこで、前大統領が彼女を学校へ行かせていたという美しい話しが生まれた訳だが、チャレンジャーな彼女は旦那の他界後、莫大な財産を継承して自ら大統領候補に名乗り上げる。そこで1999年9月に当選を果たしたわけだが、経済顧問を抱えつつも、なかなかこれがうまくいかない。彼女が大統領就任後は、パナマの経済状況はますます悪化し失業率も上昇することになる。しかしながら、国民からは貧困層の出身という点でも親近感を起こさせる人柄としての支持率は悪くないようである。タクシーの運転手は「景気が悪化の一方で、本当に困るよ」と漏らしているのを聞くと、大丈夫かな、とちょっぴり心配になったが。実は、まだまだ男尊女卑文化が根強いパナマで、女性が大統領になった、という事実にも驚いたが、彼女の経歴を聞いたときも「さすがパナマだ・・・。」と感心してしまった。そして、時の人ミレイジャは、地元の新聞やテレビ番組を今日も賑わす。

●歴史的建物なんてなんのその
 
パナマの歴史は、その中南米地域でも古く、歴史に残るイベントを数多く経験している。パナマ運河はその確固たるもののひとつで今も尚健在であり、日常茶飯事の生活と密着したものである。しかしながら、実用性のない過去の遺物となってしまったものに対しては、歴史的建築物を記念として残そうという気の効いた発想は存在しないようである。権威の悪用で米国の怒りを買ったノリエガ将軍は、1989年に'Operation Just Cause'のもと、彼の邸宅で逮捕された。その邸宅は今でもCasco Viejoに屋根も朽ち落ちた古屋敷のままとして残っている。日本や他の先進諸国であれば「ノリエガ邸宅」として何らかの形で残りそうなものだが、パナマの場合はなんと、ダンス・クラブと化していたのである!確かに海に面したその建物は、2Fの天井が抜け落ち、夜空が演出を奏でていて、ナイト・クラブには絶好のロケーションではあった。しかし「ここがノリエガ将軍の邸宅だよ」と紹介された建物が、レーザー光線を空に発し、サルサ音楽がガンガンに溢れるクラブと化していたのである。その変身ぶりを見たときは、目が点になってしまった。ある意味パナマの効率的な発想・柔軟性(?)に感動すら覚えてしまった。パナマでは、なんでもありのようである。

●運転マナー?決して安全でない交通事情
 
パナマで少しでも生活したことがある人なら、必ずその交通事情の悪さに関する苦情を耳にすることがあるだろう。交通事情に関しては、発展途上国だという印象は拭えない。パナマシティの地図を広げると見事にくねくねとした道が細々と東西南北に広がり、道を覚えるにも記憶するしか方法はない。しかしながら街全体が小さく、パナマシティの繁華街はどんなに遠いところでも20分くらいで辿り着く。その中でも、にぎやかな通りは数えるほどで、10分くらいの車移動でなんともこぢんまりとした街である。舗装が整備されていない個所も多く、バンパーを擦るような個所も多い。この街の人口は110万程度だが、そのわりには道が狭く行動範囲が限られているため朝夕の渋滞も避けられない。また、狭い道路にところせましと路上駐車の車が並ぶため、出会い頭の事故も多い。雷と同様に脅威なのは、運転マナー。マナーという概念は恐らく持ち合わせていないであろうパナマ人の運転は、これまたアグレッシブ。狭い道なのであまりスピードは出ていないのだが、事故比率は俄然高い。自分自身もレンタカーをして運転をしているため、会社からは、事故にあったときの対処方法を細かく指示されている。クラクションもブレーキを踏むのと同じ位の頻度で鳴らす。カラフルな原色カラーでペイントされたドアのないバスは、バスにしては高スピードで、乗客の乗り降ろし時にも完全に停止しないこともあり、乗客が飛び乗る姿も目にする。インドでも同様の風景を見かけたが、発展途上国のバス事情は共通するものがあるであろうと想像する。また、出会い頭の事故が多い交差路で、路上駐車が多いことも目についた。視野が遮られるので事故を誘発するのだ。おまけに左右の車を確認せず飛び出す車も多い。信じられないことに、事故を招く確立の高い交差路で、一時停車しない車が多いのだ。しかしそうした交差路には、通常日本や先進国であればミラーがあり、左右から来る車が見えるように配慮されている。が、パナマにそういった気の効いたものは存在しない。ある日、出会い頭の事故に遭わないかと冷や冷やしていつもの通勤道を走っていると、その交差路に変化があった。交通標識というものが立てるわけでもなく、「ALTO(止まれ)」と路上に白い文字で大きく手書きで書かれていた。これがパナマのできる最善の対応策なのである。

●貧しいようで豊かな生活?
 
パナマ社会の階級は、裕福層と貧困層にはかなりの差が見られる。日本の給与の平均金額は入社初年度で19万〜21万くらいだろうが、パナマは階層によりかなりの差がある。最低賃金は月$190であり、セキュリティーガードなどがそのレベルにあたる。秘書は平均$350ほどで、あまり差がない。一方、最高賃金などというものも存在しているらしいが、それでも月$3000、日本円にして27万程度である。パナマ人にとっては大金のこの給与をもらえる立場の人間は、マネージャー階層の人であり、実際に身を粉にして働く人々である。会社のオーナーより高い給与をもらっている。オーナーは、$2000と日本の勤続1年目とさほど大差はないとのこと。ところが、彼らの生活は、実は意外と我々のそれに比べて豊かだったりするのである。
  我々の現地販売会社に勤務する人々は、裕福層に属するのであろう。何十年も住みなれたパナマを後にし、マイアミへ家族と共に異動してきたホルヘは、生まれも育ちも生粋のパナマ人である。「家族はどう?」とマイアミでの生活を尋ねると、必ず10分では話が終わらない彼の愚痴話題がある。「お手伝いさんがいないから、妻がいつも不平をこぼすんだ。」から始まり、「パナマでは安い賃金でお手伝いさんが何でもやってくれたが、マイアミは何でも自分達でやらなくてはいけない。」と延々とその不便さを語ってくれる。
  パナマの別世界を垣間見ることができる場所として、裕福層の多くが別荘を所有している地域・コロナドがある。喧騒なパナマシティの装いとはまったく異なる世界である。海があり、ブーゲンビリアの咲き乱れるスペイン調の雰囲気ある別荘が並ぶ、完全なリゾート地である。米軍がパナマに滞在していた時代は、多くの米国人が居住していたそうだ。コロナドに別荘を持つ家庭は、その裕福さを象徴している訳だが、当然住み込みのお手伝いさんがいる構図となる。やはりコロラドに別荘を持つ、裕福層の家庭で育ったパナマ人のパウラは、パナマ女性を象徴している。お手伝いさんがすべて周囲の世話をしてくれた環境で育っている彼女は、今まで食事を作ったことがない。彼女とパナマで出会い恋に落ちたアメリカ人の友達は、彼女との結婚を真剣に考える過程で、彼女がオーブンの使い方も知らないことが知ったときは相当のカルチャーショックを受けたと言っていた。
  セールスマネージャーのホルヘは、社内では「遊び人」と言われるほど遊びに関して貪欲であるが、素敵なお母さんと2人で高級アパートに住み、BMWで颯爽と現れる。Tommi Hillfigerでマーケティングを担当するホルヘの幼なじみアバッドの部屋は、趣味の良い輸入インテリア家具に囲まれ、コーヒーテーブルにはカルチェやブルガリ等、ブランド品の雑誌が陳列されていた。何度かダンスクラブで偶然アバッドに会ったことがあるが、日焼けした肌に金のネックレスをする彼は、これまたパナマにおける裕福層の若者の典型例と言えるだろう。
  そんな彼らが豊かで平穏な生活を営む反面、パナマ市街では、毎日の食べ物を得るために、多くの人々が道路でフルーツや雑貨を売っている。道路も穴ぼこだらけで、整備という言葉に縁がないように見受けられる。スペイン語の先生だったシェビーも、スペイン語の授業が唯一の収入源であると時々経済情勢の厳しさをこぼしていた。彼女は、会社の人々からは、決して行ってはいけない危険な地域、と言われていた地区に住んでいた。もうひとつ、危険な地域として聞いていたショッピング・エリアのセントロ(CENTRO)は、シェビーが一番お気に入りのショッピング場所であった。ある朝、ホテルでシャワーのお湯が出なかったことをシェビーに愚痴ったところ、バツの悪い思いをしたことがある。「お湯は高いから、私はいつも冷水でシャワーを浴びてるのよ。パナマ人のほとんどの人々はお湯が高いから水でシャワーを浴びているの。内地の人は水がもっと冷たいからかわいそう。寒い日は浴びられないし。」と返答が返ってきた。
  そんな中、テレビで頻繁に流れていた「ケア(Care)」という組織のCMにやたらと注意が惹かれた。この組織、貧しい地域に住む人々を助ける活動をしている。何度も目を奪われたCMとは、井戸が通った瞬間に裸足の子供がまぶしい笑顔をこぼすシーンである。裕福なパナマの友人達と付き合っている中、ふとパナマが発展途上国であることを再認識させられる瞬間である。そういえば、長期滞在したホテルの駐車場にはジャイカ(JICA)ロゴが入った泥まみれのジープが止まっていたなぁ、と思い返す。この国では、今後、豊かさと貧しさの差異が縮まることがあるのだろうか、と疑問に思った 。

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◆ 第三話  知られざるパナマ事情 II 

< 続 Episodes >

●一人目のスペイン語家庭教師・セキ
 
業務上ではスペイン語を必須とされていた環境にいたことから、毎朝一時間づつのスペイン語クラスを3ヶ月間受講した。一人目の先生、ユーゴスラビア家系のセキからは文法の基本を、その後、アフリカ系パナマ人のシェビーに会話を中心に習うことになる。先進国では当然の組織だった語学教育プログラムに比べ、パナマでは個人の力量により授業内容もばらつきがあるようだ。そうして2人のパナマ人と身近に接する機会を得たわけだが、2人は全く異なるバックグランドと性格を持ち、それぞれ、違った視点でパナマを紹介してくれた。
  初対面の頃から「パナマ人は無責任だから…」「パナマ人は…」と、パナマ生まれの生粋国籍を持ちつつもユーゴスラビアの家系を誇りにしていたセキは、常にパナマについて客観的に話したがった。パナマ人が経営するスペイン語スクールの一教師として派遣されてきた彼女は、そのパナマ人経営者がきちんとお給料を支払わないと日頃からぼやいていた。ある朝突然、サプライズが待っていた。「貴方たちにお願いがあるの!」と始まり、「語学スクールからの派遣を辞めるつもりなの。スクールから独立しても、私の生徒として続けてくれるかしら?」と頼まれる。「もう本当に腹が立つわ!スクールのオーナーが、お給料を支払ってくれないのよ。」と理由を話す彼女にNoと言えるわけがない。そうして間もない数週間後、また次のサプライズが待っていた。「カナダへの移住件が取得できたの!!!」彼女はかなり興奮した様子で、目を爛々とさせて報告してきた。彼女はパナマの外で生活することをよほど望んでいたらしく、カナダ移住の話しは待ちに待った吉報だったらしい。1ヶ月後には家族全員で引っ越すと言い、そして新しい先生へとバトンが渡ったわけだ。

●環境保護はどこ吹く風?
 
セキの授業はグループで受けていたが、とても印象に残った話題が2つある。ある日、週末に波があるパシフィック・コーストへサーフィンをしに行った話しをした。すると、「パシフィック・コーストはサメがでるからカリブ海側の海の方が安全よ」、とセキに勧められる。「カリブ海側にはダイビングスポットもたくさんあるのよ」と、彼女の話しはここまでは良かった。ところが、「サメがでたら珊瑚の上に立つこともできるし。」と続いた。ん?今、何て言ったの?と耳を疑った時、横からちょっと待ったが入る。環境保護の教育をしっかり受けてきたアメリカ人のショーンだ。「ちょっと待って、それどういう意味?珊瑚の上に立ったら珊瑚が死んじゃうじゃないか。」「あら、たくさん珊瑚があるから少しくらい大丈夫よ、すぐ復活するし。」とまぁ、日本語に訳したらそんな意味合いのことをセキが言う。その言葉に憤慨したショーンが、環境論などどこ吹く風といった感じのセキに反論を始めたのは言うまでもない。結論を言うと、環境を保護する、という概念がパナマ人には存在していないようである。ジャマイカの珊瑚も絶滅に近い状態であったが、パナマの珊瑚も危ないのが実情。環境保護の教育よりも、自国の経済情勢の発展を優先すべき発展途上の国々の性を感じた。「珊瑚は一度死んじゃったら復活するのに数十年かかるんだ。」と息巻くショーンに「少しくらい死んじゃっても本当にたくさん珊瑚はあるんだから大丈夫。」と返す彼女の台詞を聞きながら、それも無理ないか、とこの国の珊瑚に同情する。

●パナマの本屋さん?
 2つ目の話は、本屋さんに関する話題だ。パナマでしばらく生活するうちに、妙なことに気づいた。どこにも本屋さんらしい本屋さんをどこにも見かけないのだ。ある日、セキにどこに本屋さんがあるのかを聞いてみた。すると、信じられない返答が返ってくる。ちょっと考えてセキは、「ファーマシー(薬局屋が主体の雑貨屋)にいけば少し本が置いてあったわ。でも他はよく知らないわ。」ときた。え?パナマ人は本を読まないってこと?!確かに、ファーマシーでちょっとした本や雑誌、語学系の教材は見かけた。しかしながら、店内で縦・3メートル、横1メートルくらいの棚に陳列されている程度の種類である。そんなことありえる?と、本は教育の基本である、という常識が存在する私は唖然。インターネットのプロバイダーすらほとんど存在していないパナマで、本はオンラインショッピングで購入しているとも考えられない。その後、ことあるごとに「本屋さん知らない?」と知り合いに片っ端から聞きまわったが、返ってくる返事は似たりよったり。当社支店で働く人々は、海外に出張する際に空港で本を買うことがほとんどだと教えてくれた。ある日、パナマではちょっとお洒落な作りのカフェスタイルの新しい本屋さんがオープンするバナーを街で見かけたときはかなり嬉しかった。オープン時には喜び勇んでその本屋へ期待を膨らませ足を運んでみた。お陰で幼児向けの絵本群とスピリチュアル系・宗教系の本しか置いていないことを知ったときの落胆度は大きかった・・・。

●二人目のスペイン語家庭教師・シェビー
 
セキがカナダへ移住した後、スペイン語クラスを引き継いでくれたのがシェビーである。彼女に先生が代わったのと同時に、それまで一緒に授業を受けていた二人は授業を中断した。個人レッスンになったわけだが、今度の先生はまったく英語が話せない。片言でも英語の話せたセキのときとは違って、本当にスペイン語の練習を強いられることになる。セキが「パナマ人だけどとても責任感があって大学を出たばかりの優秀な人」と紹介されたシェビーだが、これまたとても良い教師だった。(それにしても、この「パナマ人だけど」というセキの前置きは、彼女のパナマ人への不信感が現れている。)とにかくシェビーは、私が3ヶ月パナマに住んだなかで、最もパナマ人、と感じさせられ、多くを学んだ女性といえる。彼女の話しは、パナマの歴史、観光地、文化から始まって、社会問題、男女関係など多岐に渡り飽くことがなかった。テキストだけではない様々な教材をもとに、スペイン語文法等だけではない、パナマの興味深い話を懸命に説明してくれた。言葉だけでなく、パナマ人の気質も学べる良い機会であったといえる。

●何でも手作り
 シェビーは、バス通勤であったにも関わらず、その日の授業で話題にのぼったものに関係するものは、後日必ず持参してきてくれた。面倒を厭わない、気の良いパナマ人の現れだろう。ある日、好きな食べ物をスペイン語で説明する、という授業があった。フルーツが大好きな私は、パナマで初めて口にしたフアナバナ(Guanabana)というトロピカル・フルーツがとても気にいったという話をした。彼女は、「うちの庭にフアナバナの木があるから、よくヨーグルトにしているのよ。」と、その作り方を説明してくれた。その翌日、手作りのフアナバナ実入りのヨーグルトを持ってきてくれる。余談だが、このフルーツは常夏環境でしか育たないため、あまり中南米以外では見かけない。日本では、一時帰国した際、サーティーワン・アイスクリーム(バスキン・ロビンズ)店で、「フアナバナ・シェイク」を見つけとても嬉しかった記憶がある。フアナバナはコロンビアから輸入していると聞いた。
 さて、話を戻す。手芸が好きな彼女は、「私はよく川に行ってそこで良い土や形の良い石をとってくるの。あと、押し花用の草花もよく森林に探しに行くわ。」と話してくれた時のこと。材料を自然の森林や川から調達してくる、ということ自体に驚かされたが、確かにパナマの手芸店というのも聞いたことがないなぁ・・・とその発想が自然に思えてくる。そして、翌日の授業はシェビーの小作品展覧会となった。実際にどんな材料で何が出来上がるのか、その作り方を実物と共に説明してくれる。それらの作品の中でも、土と貝だけで作ったパナマ・バージョンの風鈴はなかなか素朴で気に入った。また、パナマの伝統的な民芸品について話している中、土焼きのセラミックが話題になった。そして、その数日後、「パナマの記念に。」と、典型的なパナマモチーフで仕上がった壺をプレゼントしてくれ、さらなるサプライズが待っていた。私がいるかを好きだと知って、いるかを作ってきてくれた日もある。
 またある時、「大学キャンパスで、映画上映をしているから一緒に見に行かない?」と誘われた。彼女が卒業した大学では、定期的に映画を一般市民に公開しているらしい。上映される映画は、教育の一環でもあり海外を舞台にした作品が多いようである。そのとき彼女が見せてくれた映画プログラムのパンフレットは、なんと日本の映画特集だった。北野たけし監督作の映画が名を連ねている。また、必ず海外では上映されているのは黒澤 明監督の「七人の侍」だが、彼もパナマでは有名な日本人監督だと話してくれた。ちなみに、パナマ・シティ内に数箇所ある映画館では、アメリカで封切りになったものが、通常1ヶ月程の時差で上映されていた。

●トラディショナルなパナマ国民
 
音楽の話題では、時にはテープ・プレーヤーまで持参してパナマで人気のある曲などを紹介してくれた。シェビーの話はその中でもトラディショナルで且つ国内で大人気のパナマ出身ミュージシャン達の話に熱が入った。彼らのCDを流しながら、「ありきたりの恋愛ばかりの歌じゃないのよ。パナマを良くしようといういうメッセージが多いの。」と誇らしげに説明してくれる。パナマで売っているCDは、大抵スペイン語歌詞に英語翻訳がついている。よって、私にも歌詞の意味が理解できた訳だが、なるほど、陽気なサルサのような曲とは裏腹に、歌の内容は貧困問題、人生の苦楽、恵みの恩恵等の社会問題(Social Problem)や、また、遠く離れた家族を想う気持ち、母への感謝の気持ち等、家族愛をテーマにしたものが多い。パナマ国民の心境を反映していると言えよう。
 ここで家族話を少し付け加えたい。実は、シェビーには腹違いの兄姉妹がたくさんいた。シェビーは週末になると、パナマから1時間程離れた地区に住むお母さんに頻繁に会いに行っていたが、お母さんはまだ小さい子供を独りで育てていた。お父さんは家を出て、シェビーの義理母と住んでいるらしい。彼女曰く、「パナマではそれが当たり前なのよ。悲しいけれど、大抵の女性は文句を言わないわね。」ちなみに、彼女がどこからか入手した統計では、本当かどうかは別にして、パナマと隣国のコスタリカにおける男性の浮気率は他中南米諸国の中でもダントツらしい。パナマ社会の男尊女卑構造もまだまだ深刻そうで、耳にする噂話はまるで戦前の日本のような話しが多かったりする。典型的な家庭では、女性が家で家事・育児をするのはあたりまえ。妻は家で旦那の帰りを待ち、旦那はパーティーで出会う女性に自分はシングルだと嘘を言うことが当たり前。それを象徴するような笑い話を耳にする。実話らしいが、我社のパナマ支社クリスマスパーティーの案内があった際に、妙な忠告が流れた。配偶者以外の女性同伴はお断り…要は、そう規制しないと、正妻ではなく愛人を連れてくるらしいのだ。前年にそうした問題が起きたらしく、今年は丁寧に忠告付というわけだ。
 反面、そんなイメージとはかけ離れた誠実なパナマ人も多い。正直、私が知る限りのパナマ人家庭は、そういった話しを信じるほうが難しい。パナマ支店を支えるリカルドは、美人でグラマーな奥様がご自慢。どんなに忙しい時期でも、奥さんの写真を見てはそれを慰めにしていた。また、セールス・マネージャーのホルヘも、イギリス系の血が混じっている青い目のヘーゼルと来年結婚する予定だが、数年つきあっている彼女をいつも大切にしている。思い返せば、ヘーゼルはいつもホルヘに対して一途で、彼を絶対的にサポートしていた。彼女もそうだったが、以前に前述したアメリカ人のショーンと付き合っていたパウラも、とても家庭的で常に彼に尽くしていた。実はその点が独立心旺盛なアメリカ人女性を見て育ったショーンにどこか物足りないと思わせてしまったようだが。2人は、「パナマの社会はまだとても保守的で、世間の目は厳しいのよ。ボーイフレンドとの旅行や、彼の家に宿泊なんて言語道断よ。」と話していたの思い出す。しかしこの点は世界共通ではないだろうか。

●シェビーと覗いたパナマのアフリカ系社会
 
「サルサを踊りに行こう。」「セラミックの作り方を教えてあげるから家に遊びにおいで。」「ダリエン(コロンビアとの国境にある地域)で兄が働いているから一緒に野鳥観察をしに行こう。」と、始終誘ってくれていたわけだが、なかなか一緒に出かけることができず、今思うと残念だった。しかしながら当初は、プロジェクトも佳境に入り、土日も働き詰め、という中、早朝スペイン語教室を続けることすら辛い状況だった。そんな中、遠出はおろか、慣れないスペイン語環境に一日中身を置くこと自体に、正直言って気を臆していたという理由も少なからずある。それでも、ある晩、シェビーと、彼女の親友ノルと共にアフリカ系のパーティーへ遊びに出かけてみた。

  パナマ・シティから北西へ行くと、有名なパナマ運河のあるコロン市へと続くアメリカ橋(Puente de las Americas)があり、その手前にいくつかの観光ポイントがある。その一つ、パナマの伝統的な家や衣装等が展示されているミ・プエブリト(Mi Pueblito)を訪れた。展示物を材料に、パナマの生活習慣等を説明してくれた訳だが、その日の目的は、ミ・プエブリト斜め向かいにあるアフロアンティジャーノ(Afroantillano)であった。パナマ運河を構築時に、多くのアフリカ系奴隷がこの地に連れてこられた訳だが、アフロアンティジャーノはそうしたアフリカ系パナマ人の集う場だった。定期的にパーティーを行っているらしく、その夜はミュージック・フェスティバルだった。ちょっぴりわくわくしながらしながら2人に着いていくと、エントランスで5ドルの入場料を徴収される。しかしながら、常連客の2人は顔パス。私も免除してもらえた。リズムの良い音楽が聞こえてくる。ドラムのビートがきいたアフリカ系の音楽を期待していた私は、実は、耳に入ってきた音楽がちょっと意外だった。「これはアメリカン・ミュージックじゃない?アフリカ系ではないの?」「私達の文化はアメリカの影響がとても強いのよ。ずっとアメリカ支配下にいたからね。音楽もその一つ。だからたくさんアメリカン・ミュージックを聞くわよ。」と答えが返ってくる。よくよく壁に貼ってあったポスターを見てみると「Oldies but Goodies」とある。これまた、パナマのアフリカ系文化に影響を強く及ぼしている国がる。カリブ海に浮かぶ島で、ベネズエラ共和国の北に位置するトリニダッド(Torinidad and Tobago)である。特にカリブ海側の町は、アフリカ系人種が多く住んでいることもあり、今でも影響を多く残しているそうだ。トリニダッド生まれの不思議な音色を奏でるスチール・パン・ドラムは、パナマでも人気の楽器で、コンサートも盛んに催されている。CDもがたくさん売られており、この日もいくつかの曲は、スチール・パン楽器の演奏があった。余談だが、パナマ行きの飛行機で隣り合わせたシティ・バンクのケンが、トリニダッドへ旅行をしたときの話をしてくれた。トリニダッドに住む人々は、欧州白人とアフリカ系黒人、そしてインド系の血が混じったとても美しい人種だ、という。
 「ちょっと知り合いに挨拶していってもいい?」と、スペイン調建物の2階に連れて行かれる。そこにはこれまた明るい女性が出迎えてくれ、久しぶりに会ったとシェビーとノルに家族の話をしていた。「今週末にうちでパーティーするのよ。良かったら遊びにいらっしゃい。」と気さくに誘ってくれる。その建物は、少し小高くなった場所に建てられており、対面にはパナマ湾も見下ろせる位置にあった。夜景がなんて綺麗なのだろう、とバルコニーから見える風景に引き寄せられる。すると、会話から外れていた私に気を遣ってか、「パナマも綺麗なところがたくさんあるでしょう。」とシェビーが話し掛けてきた。ところが、次に続いた彼女の言葉にドキッとする。「今は修復されたけど、あの地域はほんの10年程前に米軍の爆弾で多くの家が焼かれたのよ。」と目の前に見えるプロジェクト地域を指差す。1989年の12月に起きた'Operation Just Cause'(前章にて詳細を掲載)の話をしていたのであった。このインベージョンで、2000人以上の市民が命を落とし、数千以上の市民が家を無くしたと言われている。
 その後、コンサート・ダンスフロアとなっている会場の裏道にある出店の前を通って、もう一つの見所を紹介してもらった。連れて行ってもらったところは、パナマには今でも多くのインディヘナ部族がそれぞれ固有の伝統を守りながら居住しているが、それぞれの藁葺き屋根の家を模倣した村だ。月明かりに照らされた居住区は、自然に囲まれひっそりとしており、なかなか村の雰囲気を出していた。ちょっとした散歩道には池もあり、蛙の鳴き声が響いていた。
 お腹が空いたね、とパーティー会場に戻る。何を食べたか覚えていないが、食事を食べながらシェビーとノルと確か、ガールズ・チャットをしていたのは記憶している。大学で働いているノルは、彼がいるスペインに行きたい、と話をしていたように思う。一方、シェビーはシングルで、特定の彼はいなかった。以前、海外協力でパナマに滞在していたアメリカ青年と少しおつきあいをしている、と話してくれたことがあった。しかし、メールや電話の連絡手段がまだまだ発展していない地方で働いている彼とは、なかなか会えないからもう諦めているという。「パナマには、自分を理解してもらえる男性はなかなかいないのよ。パナマの男性はあまり信用できないしね。」うーん、返答に困ってしまった。陽気な音楽と、人々の楽しげな笑い声が夜更けまで続く。

●お気に入りのカスコ・ビエホ(Casco Viejo)とコーズウェイ(Causeway)
 
ついでなので、このミ・プエブリト周辺にある観光名所について触れておきたい。先述したように、コロンへ続くアメリカ橋の手前には数箇所、立ち寄りたい場所がある。冒頭で述べたカスコ・ビエホ(Casco Viejo)と呼ばれる旧パナマ市街は、パナマ湾岸のバルボア通りが終わる辺りにある。湾に突き出した一角となっており、街は碁盤の目となっている。ここを初めて訪れたのは、パナマ滞在を始めてから数ヶ月間経ってからだった。かの有名なパナマ運河の他に観光らしい観光をしたことがなかったせいか、このカスコ・ビエホを訪れた時はちょっとした驚きだった。小さい国、と思い込んでいたばかりに、パナマ・シティとは全く異なるテイストを持つこの地域が存在していることを知り、嬉しくなったのだ。普段生活している住宅地やビジネス街から車でほんの10分程度の場所に、そのカスコ・ビエホがある。全く面持ちの異なるこの土地は、とてもパナマ市中心街からは想像のつかないヨーロッパ調の街並みである。結果的に、何度もその後足を運んだわけだが、とりわけ気に入ったレストランがあった。Cafe Du Libanという中近東料理のこの店は、2Fにバルコニー席がある。パナマ・シティが対岸の風景として演出し、大統領邸宅が隣接する。食事も期待以上に美味しかった。初めてそこで食事をした時は、漁港が左脇に見え、1艘の漁船が煌煌と灯りをつけ停泊していた。水面に反射する光と、船から聞こえてくるラテン音楽が、まるで「車窓の窓から」に登場するようなヨーロッパのイタリア漁港のような錯覚を起させてくれる。ラテン音楽に合わせて漁師が船内で踊り騒ぐ声とリズムの音が聞きながら、とても心地の良い時間を過ごした。
 パナマ運河博物館(Museo del Canal Interoceanico de Panama)やパナマ歴史館(Museo de Historia de Panama)等がある名所 プラサ・デ・ラ・カテドラル(La Plaza de la Catedral)も是非、お薦め。この周辺にはレストランやバーも多く、週末はパナマの若者が狭い路地に渋滞を巻き起こす。そのうちの一つ、プラサ・デ・フランシア(Plaza de Francia)の手前にあるブルー(Blue)というローカル間で話題になったクラブへ行った事がある。室内が全てブルーでライトアップされている他は、普通のバーだった。そういえば、ライブのジャズ音楽が聴けると聞いて、ラス・ボベダス(Las Bovedas)というレストラン・バーへ出かけてみたこともある。いつ始まるか、いつ始まるかと思っていると、ジャズはほんのさわりだけ、通常通りのリズムへ早変わり、期待もサルサの軽快なリズムと共に泡となって消えた。
 さて、カスコ・ビエホ地区を通りすぎ、さらに北へ走ると、アメリカ橋の手前にもう一つよく足を運んだ場所がある。コーズウェイ(Causeway)と呼ばれるアマドール通り(Calle Amador)で結ばれた3つの小さい島々だ。6Km程度あるアマドール通りは、両サイドは海に挟まれ、晴れた日はとても気持ちがいい。パナマを訪れた最初の週末に、セールス・マネージャーのホルヘにドライブへ連れてきてもらい、あまりの清々しさに感激した記憶がある。整備された道の両脇には椰子の木が並び、ジョギングや散歩に人気があるスポットだ。1903〜1904年にかけて構築されたこのコーズウェイ、歴史は長い。コーズウェイの最先端の島、イスラ・フラメンコ(Isla Flamenco)に位置するバルコ(Barco)というレストランは、昼間よりも夜がお薦め。年末の恒例カウント・ダウンパーティーが会員制だが行われている。途中、藁葺き屋根のオープン・レストランが左手にあるが、ここではパナマのローカル料理が楽しめる。典型的な揚げ物系のパナマ料理から、シーフード料理までメニューも豊富で、家族連れでゆったり食事の時間を楽しむ人が多い。そう、パナマでは、そうしたのんびり流れる時間というものを十分に堪能できる場所がいくつも存在していた。

コーズウェイのイスラ・フラメンコにあるレストラン・バルコ

カスコ・ビエホからの夜景

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